十四代大西浄中作「竹内栖鳳下絵 笹地文万代屋釜」
十四代大西浄中作「竹内栖鳳下絵 笹地文万代屋釜」

 その真否はともかく、釜座通りを中心とした一帯には鋳物師が数多く居を構えるようになり、そこで仏具をはじめとする様々な鋳物が作り出されていった。その中には茶の湯釜も含まれている。釜師と呼ばれる三条釜座の鋳物師たちは、座だからこそ手に入れられる鉄や砂などの鋳物材料を存分に使い、茶人たちの注文を受けて多くの茶の湯釜を生み出していった。

十四代大西浄中作「浜松地文繰口釜」
十四代大西浄中作「浜松地文繰口釜」

 当時の文化的な先進地域といえば、京の都周辺や、同じく信長の後ろ盾を元に急成長を遂げていた堺を中心とした一帯である。そこに住む茶人たちにとって、九州の芦屋や関東の天明に比べて、遥かに近くに住む釜師たちの存在がありがたかったに違いない。彼らは茶の湯が盛んになるにつれ、自分たちの好みの釜を彼らにオーダーメイドで製作させるようになっていった。制作現場は近い方が、何かと意思の疎通がはかりやすいということだろう。

 釜座の釜師たちは、そんな権力者や茶人たちの注文に応えて、釜を数多く作るようになった。そして武野紹鴎に千利休、古田織部や小堀遠州などに代表される茶人たちによって、独創的な茶の湯釜も釜座から数多く生まれた。樂焼における利休と長次郎のように、プロデューサーと作り手が一体となって、新しい価値観で釜が作られ始めたのである。

十五代大西浄心作「東山魁夷下絵 松地文真形釜」 唐銅朝鮮風炉添
十五代大西浄心作「東山魁夷下絵 松地文真形釜」 唐銅朝鮮風炉添

 作り手の技術や造形的感覚などが加味されるのに伴って、釜師たちの「名前」もクローズアップされるようになった。それまでに作られてきた、芦屋や天明の釜には、作り手の名前が前に出るものは少なく、かろうじて、永正14年(1517)に「大江宣秀」との作者名を鋳込んだ芦屋釜が、現在に伝えられている。ところが三条釜座の釜は、作り手の名前が前に出るようになった。同じ鉄から作られる工芸品である日本刀と同じく、作者名がブランド化し、それが価値を高めることとなったのだ。

 最初期に登場したそういった「名前のある」作り手として、現在でも最高峰の釜の作り手として名の挙がる存在に西村道仁(にしむらどうじん)、名越善正(なごしぜんしょう)、辻与次郎(つじよじろう)らがいる。彼らは室町後期から、桃山時代に活躍した釜師で、仏具なども手がけながら、茶人たちの注文を受けて釜を作った。道仁は織田信長より天下一の称号を受けている。