九代大西浄元作「鐵道安風炉」奥平了保作 刷毛目釜添
九代大西浄元作「鐵道安風炉」奥平了保作 刷毛目釜添

 芦屋と並び称されるのが、現在の栃木県佐野市で作り出された天明釜だ。鎌倉末期から、梵鐘などを作り出していたとされ、芦屋と同じく高い技術を保有していた。文様や霰といった加工のない、鉄の表面の肌合いを生かしたものが中心で、形状は素朴なものから、複雑な形状まで多様である。この二つの産地の流れを汲む鋳造地が、全国各地に出現して、その一部は現在も鋳物産地として残っている。

 室町後期から、芦屋、天明といった産地で作られた数多くの釜は、釜全体の水準を技術的にも美術的にも引き上げた。それに伴って名品の価値が、茶人、武将の間で急速に高まっていく。そしてついには武将たちの交渉材料ともなり、彼らの命を左右するものにまでなった。

十代大西浄雪作「鯉地文達磨釜」
十代大西浄雪作「鯉地文達磨釜」

 戦国時代、織田信長によって攻められ進退窮まった松永久秀は、降伏と共に、彼の持つ「平蜘蛛釜」という釜を差し出せば命は助ける、という勧告を受ける。久秀に、それまで幾度となく裏切られていた信長としては、おいそれと許すわけにはいかない。他の事情はあったのかもしれないが、そのような土壇場に至ってなお、反逆者の命と引き換えに名品の釜を手に入れようとしたのだ。

 信長から戦国時代という動乱の時代であることを考えれば破格の好条件を出された久秀だが、彼はその申し出を拒否し自害してしまう。しかもその際に、平蜘蛛釜を爆薬と共に自らにくくり付け、釜もろとも爆死したと伝えられている。久秀は、その以前、信長の配下となった際には、恭順の証に茶入の名品「九十九髪茄子(つくもなす)」を渡していた。足利義満が所有し、後に豊臣秀吉、徳川家康らも所有する事になる歴史に残る名品は手放せても、平蜘蛛釜は手放さなかった。もちろん、理由はいろいろとあっただろう。ただ、その一つに「これだけの逸品を手放すのは何とも惜しい」という思いがいくばくかはあったことだろう。少なくとも人々がこの逸話を「茶の湯の釜も一級品ともなれば、一国一命を賭けてもおしくないほど価値がある」ことを伝えるものとして語り継いできたことは事実である。

十三代大西浄長作「雪花釜」
十三代大西浄長作「雪花釜」

 平蜘蛛釜を切望した信長は、その一方で久秀を討伐した明智光秀に恩賞として八角釜を与えた。信長がいわゆる「目利き」であり、名品を愛でる気持ちは人一倍強かったのは間違いのないことだろう。しかし、それと同時に、茶道具の価値を引き上げ、領地の代わりに恩賞として与えるなど、政治的に利用した人物でもあった。

 そんな信長は、上洛後、京都の鋳物師たちのギルドとも言うべき「三条釜座(かまんざ)」の営業権を認めている。それ以前から三条釜座は、材料の購入や制作物の販売等において既得権益を所有する「座」の一つだった。楽市楽座政策を掲げ各地の特権を持った座等を解体し、自由経済を推進した信長であれば、その特権も剥奪するのが自然だろう。しかし彼は、三条釜座の特権を残した。一説では鋳物師たちが火縄銃の弾丸などの武器制作もできたのがその理由だったと言われている。