六代大西浄元作「鶴首釜」
六代大西浄元作「鶴首釜」

 同時期の鎌倉末期から、中国大陸から伝わってきた喫茶が、日本でも本格的に行われるようになる。当初は、主に茶の銘柄を当てて競い合う闘茶が中心だったが、次第に禅僧の茶礼などをもとにした日本独自の茶の湯の形式が作り出されていく。

 当初の茶の湯は、広い書院で、大勢で「唐」からの豪華な茶道具を使用して行われる華やかなものだったとされる。ところが、室町後期になると、朝鮮半島で作られた「高麗もの」や国産の「和もの」が茶道具として使われるようになり、茶室も小型化するなどして「侘び茶」へとさらなる変容を遂げていく。村田珠光が創始し、武野紹鴎や千利休といった茶人が確立させた侘び茶は、現在まで続く茶の湯の根本をなすものといえるだろう。香や能、立華(生け花)の影響を強く受け、日本のみならず海外からも含めた文化の粋を集め構築した総合芸術といえるだろう。そこでは、茶室から衣類、茶碗などの道具類に至るまで茶を喫するためのあらゆる要素が徹底的に吟味され、洗練を極めていった。茶道具は、互いに密接に関係しあい、ひとつの世界観を演出する一要素でありながら、それ1個でも鑑賞の対象となるだけの、いわば芸術品としての美しさをも求められるようになっていく。

七代大西浄玄作「唐犬釜」
七代大西浄玄作「唐犬釜」

 そのような侘び茶の世界で、釜は重要な位置を占めるようになる。喫茶が日本に紹介された当初は、生活道具の釜をそのまま流用し、茶の湯にも使っていたらしい。しかし侘び茶の世界では、客を迎える時から最後まで、客の前にあり続ける唯一つの道具である茶の湯釜は、いつしか「席の主」と称されるようになった。幕末期の政治家としてのみでなく茶人としても名高い井伊直弼は「釜は一室の主人公であり、(中略)釜次第で一会の位も定まる」と記している。

八代大西浄本作「丸形釜」
八代大西浄本作「丸形釜」

 こうした歴史を経て茶の湯が日本独自のものへと変容していく中で、一躍脚光を浴びるようになるのが、芦屋釜と天明(てんみょう)釜である。

 芦屋釜は、現在の福岡県遠賀郡芦屋町で鋳造されたとされる。当時の文化の中心地であった関西にも鋳物師集団はいた。それにも関わらず、遠隔地の九州の釜が重用されたのは、守護大名の大内氏が釜を積極的に都へ献上していたことが大きい。長距離輸送は帆船に頼っていた当時の流通事情を考えれば、画期的なことだったのだ。茶人たちの願いに適う釜を作り出すには、鋳物師たちの技術力が不可欠だが、その点においても、奈良時代から続く鋳造地として、仏教法具から日常道具などの鋳物を数多く作り、さらに大名の庇護を受けた芦屋は一頭地を抜いていた。真形(しんなり)と呼ばれる端整な円形の輪郭を持つ釜の表面に文様や霰(あられ)と呼ぶ突起などを施したものが数多く見られる。