ここ数日、部長が暗いんですヨ。「部長、一体、どうしたんだ、何か、困ったことでもあるのかィ?」。「ああ、うん、いやぁ、何でもないさ。大丈夫、なんでもないからさァ」。話し掛けても生返事、何かあるようですゾ。

 お局も心配しています。「次郎さん、部長、ちょっとおかしいわよ。窓の外をぼんやり見たり、生あくびをしたり。視点が定まらないような目をしているし、心配よォ!」。部長がこんなふうになるなんて、今まで、一回もありゃしませんヨ。何か、心当たりでもあれば、なんとかしようてェこともできますが、わけが分からないのが一番困りますワナ。

 念のため、周囲のシトに聞いて回ることに…。「そうなんですよ、僕も心配なんです。急に、それも相当考え込んでいるようで、変なことにならなけりゃあいいのですが」。例の、優秀で他社に引っ張りだこのA君の話ですヨ。余談ですが、結局、A君は転職しなかったんですナ。「出戻り御免の転職制度」があればいいのに、なんて心配しましたが、部長がむしろ、「やりたいことがあれば、転職してもいいゾ。存分にやれ!」と言ったことがうれしくて、前にも増してバリバリ、そんな開発マンですヨ。

 「おいおい、『変なこと』なんて、そんな変なこと言うなよ」、なんて変なことを言いながら、三人で状況分析です。

 まず、アタシ。「どうも、仕事の悩みじゃあないようだぜ。周りに聞いても、仕事上のトラブルはないようだし。開発もマズマズ、人間関係もいいしナァ」。続いて、お局。「心配なのはこの間、たまには飲みに誘ってねって言ったら、『最近、飲む気にならない』、そう言うのよ。部長、病気じゃないかしらねェ」。たまにじゃなくて、いつもだろうが、を飲み込んで、う~ん、病気てェこともあるかもしれませんゾと思ったところに、A君。「病気はないと思うんです。むしろ、何か、相当がっかりしたことがあったんじゃあないでしょうか。だって、急にこうなったんですから。多分、部長の琴線に触れる、そんな出来事があったのでは…、そう思うのです」。すかさず、「アタシ、部長にお金なんて借りてないわよォ」と、お局。おいおい、そのキンセンじゃなくて、部長の感じやすい心情、そっちの琴線ですヨ、もう。

 結論は、三人で部長を誘って飲む、ことに。しかし部長、ホントに嫌がるのですから心配です。A君と両脇を抱えるように、引きずるようにして、いつもの赤提灯。

 「ナァ、ホントにどうしたのサ。言いたくないなら、聞かないから飲むだけでいいサ。でも、おれたちを友達だと思ってくれるんなら、飲みながら話してくれ!」。「どっちにしても飲みましょう!」。う~んお局、アンタ、本当に明るいヤツだナァ。

 最初は、お酒を舐めるようでしたが、そのうちに…。「俺、本当にがっかりしたことがあってナァ…。サラリーマンやってて、こんなに辛く思ったことァ、今までなかったのに。それも、よりによって、尊敬している先輩が…」。

 しばらく、また舐めるように盃を重ね…。「さあさァ、部長、往生際が悪いわネ。黙って飲むだけじゃ罰ゲームよ。お勘定、覚悟してネ!」って、それもいつもじゃねえか、を飲み込んで、「まあ勘定はいいけどヨ、話してくれよ、先輩がどうしたってェのサ」。上目遣いの重い口、やっと開いてくれましたヨ。

 部長いわく、「最近、忙しい忙しいって言うから、その先輩、定年後の再就職も見つかって第二の人生もバッチリ、そう思っていたんだぜェ。それが、中国の新興企業に技術指導に行ってる、そう言うんだ。ええ、次郎さんよ、ガッカリじゃあないか。職人技の一級品、そんな先輩が、こともあろうに、国内じゃなくて中国に教えに行くなんて、シドイ(酷い)じゃあねえか。何がシドイって、ええっ、あんまりじゃあねェか! 先輩がいた会社、定年になった途端に、ハイさようなら、ご苦労様。職人技を伝承しようともせずに放ったらかし。見かねた先輩の方から、何かしましょうか、そう言ったらしいんだが、ケンもホロロ。で、『行きたかァねえけど、呼んでくれるところがあるうちが花よ』と、それで中国に行っちまった、そういうことサ。ええ、悔しいじゃあねえか。大事な大事な職人技、先輩たちに世話になりながら、ポイ捨てなんざァ、犬畜生でもしねえのによォ!」。

 「う~ん、ワンちゃんやネコちゃんは、多分、技術が分からないから、そんなヒドイことはしないけど、その会社はヒドイ。アタシも部長の気持ち、分かるわよォ」。って、おいおいお局、本当に分かってんのかァ?

 この話、深いですゾ。アタシも知ってますヨ、金曜日の成田空港。帽子にサングラス、念には念の白マスク。そんな出で立ちで、人目を避けるように出国する技術者が大勢いるそうな。でもこの話、それとはいささか違うようですゾ。その先輩の、もと居た会社の振る舞いに、問題があるようで…。

 「『ポイ捨て、それがショックだった』。そう言うんだ先輩が。分かるだろう、定年まで一生懸命働いて、しかも、技術の屋台骨を支えていた自負がある。なのに、その心意気てェか、自尊心てェか、タマシイを、あっさりと踏みにじりやがって、あの会社、人間じゃねえ!」。何か、時代劇のクライマックスのような感じになりましたが、ああ、またお局がそこで一言、「会社は法人で、人間じゃないけど、どっちにしてもヒドイ!」。

 今日のお局、相当はずしますが、止まる気配はありません。「ねえ、マッカーサーが言った『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』、知ってるでしょう。それは、役目を終えた老兵が、自ら身を引く時の言葉だけど、この場合は、何かを残したいのに、それを拒否されたのよね。もしも、マッカーサーが同じようにプライドを傷付けられたら、ソビエトに亡命して、軍の機密を全部しゃべっちゃう、それと同じじゃない! これからの日本、老兵が消えたらダメ。熟練の技を伝承しなきゃあ!」。

 例えがちょっと違うような気もしますが、まあ、本質は同じですヨ。それにしても、マッカーサーなんて、よく知っていますワナ。さてさて飲むほどに酔うほどに…。部長も、いつもの部長に戻りつつあります。

 「おかげで、段々、気が晴れてきたぜェ、ありがとうヨ。友達に話を聞いてもらうてェことがこんなにクスリになるなんてナァ」。そして、思いついたように、「おれ、来週、先輩に会ってくるよ。なァに、世間話をしながら、様子を見てくるサ」。

 そんな部長に、「おれだけじゃあ決められないが、その先輩、うちに来てもらうてェのはどうだろう。先輩の技術、うちの会社にも必要だろう? ナァ部長」と、アタシが言うと、えっと驚く部長の目に、何かジワッと光るものが。なのに…。

 「ねえ、お腹がすいたァ! お寿司屋さんで二次会ってどう?」って、なんだよ、お局。今日のアンタ、マジなのかドジなのか、一体、どっちだィ! でも、部長が涙をふきながら、うれしそうに言いましたヨ。「よし、行こう! おれのおごりだ、ぜ~んぶおれのおごりだァ! さあ、行こうぜェ!」。