久し振りに、部長が嬉しそうです。「次郎さんよォ、今日は嬉しい! 嬉しいんだ!」。一体、何があったんでしょか。「あの専務に、新しい開発案件の説明をしたら、『う~ん、そりゃあ、前例がないな』って、そう言われたんだゼェ」。そりゃァ、嬉しい。嬉しいに決まってますワナ。だって、開発しているアタシ達にとって、もしも前例があったら、それは二番煎じですヨ。開発てェもんは、新しくなくちゃァいけませんヤネ。

 開発をしていて、何が一番悔しいかって、そりゃァ、前例ですヨ。この前例、アタシ達開発マンにとっては、とても深い意味があるのです。ここで言う前例とは、過去に扱った開発案件という意味ですが、同じ前例でも、以前、開発された商品や事業がうまくいっていて、現在も売れているなら、それはリッパな現役ですから、前例ではありませんワナ。逆に、同じように、過去に開発された商品や事業でも、今、存在していないのは、その商品や事業が、お客様に受け入れられなくなったか、寿命が尽きたのか、要するに終わったてェことで、これが、アタシ達が言う前例なんですヨ。

 つまり、前例があるということは、既に過去のもの、終わった案件ですから、今から開発する意味も必要もない、そういうことなんです。逆に、前例がないてェのは、開発する者にとっては新しいコト。お客様に対しても、今までなかった商品や事業を提供する、チャンスじゃないですか。

 実は、専務の口癖がありまして、「前例がない開発はしない方がいい。前例がないってことは、ニーズがないことだ」って、よく言っていたんです。しかし、よく考えれば、誰もやっていなかったんですから、もちろん、お客様も知らないし、第一、商品も事業もなかったのですから、良いのか悪いのか、まして、ニーズがあるとかないとか、存在しなかったものを議論すること自体、おかしい話ですヨ。

 「いやあ、次郎さんよ、久し振りに専務の困った顔を見たゼェ。専務、ケチをつけたくても、前例がないから、文句が言えないのサ。前例があれば、簡単だよナァ。昔のことを思い出しながら、あの時はああだったこうだったと、そりゃァ、長く生きている分、前例の生き字引ってェことサ」。

 部長もうまいことを言いますヨ、前例の生き字引。確かに、高度経済成長期、量も種類も拡大し続けていた時代、前例の上書きで開発していた時代もありましたワナ。しかし、これだけモノが行き渡り、過去にないこと自体が付加価値とも言える時代、前例に頼っていてはいけません。お客様の好みもクルクル変わる、使える技術や材料も進化する、そんな時代に、前例を踏襲しているんじゃ、絶対に、新しい開発なんて出来るわけァありませんヤネ。

 「でもよォ、次郎さん、正直、不安もあるんだよナァ。確かに、前例がないってェのは新しい、それは分かるんだが、それは、前人未到ってことサ。誰もやっていないことに挑戦する、そりゃァ、俺だって弱気になることもあるんだゼェ」。部長のホンネ、分かりますヨ。開発は、ある意味で、暗い夜道を歩くようなもの。それも、あちこちに落とし穴があったり、思わぬ問題にぶち当たったりして、確かに、大変です。でも、そこに、開発てェものの、ヤリガイがあるってことですヨ。

 とにかく、専務の困った顔、それは、新しいコトが始まる証しです。お祝いと言っちゃァ大袈裟ですが、ここはいつもの赤提灯。お局も、もちろん、一緒です。

 「聞いたわよォ、部長。よかったわねェ、『前例があってたまるか』って、いつも言っていたものねェ」。「ありがとうヨ、でもナァ、さっき次郎さんにも言ったんだが、不安もあるのサ。こう見えても、オイラ、気が小さいんでェ」。オヤオヤ、専務を困らせた分、逆に、成功しなければ、そんなプレッシャーもあるようですヨ。

 「ヘェ~、部長の気が小さいのなら、アタシなんか、ノミの心臓ネ」。よく言うよ、あんたの心臓は(大酒)飲みの心臓だろうが、って言いたいのを飲み込んで「そんなに、茶化しちゃあいけないよ、部長だって…」、言い掛けたのをさえぎるようにお局が、「大丈夫。前例のないコトをするのは、それこそ、前例と比べられないのよ。だから、専務だって誰だって、結果が出るまでは、何の評論も出来ないはず。途中で変なコトを言う人はいないんだから、思い切ってやってネ」。

 そうか、前例がないてェことァ、前例と比べられないてェこと。確かに、前例のないことに、前例の生き字引だろうが誰だろうが、何も言えませんヤネ。いやいや、飲むほどに酔うほどに、今夜も、お局に教えられちまったてェことですナ。

 さあ、帰ろう、その時です。突然、お局が、「今夜はアタシが払うわよォ」。えっ、ホントかいな、お局のオゴリなんて、そりゃァ嬉しいことですヨ。こんなこと、前例がありませんヤネ。あっ、そうか、前例がないから、こんなに嬉しいんですナァ。