生き物なら流動する波で、モノなら固定なのでしょうか?確かに茶碗も鉛筆もその通り固定系です。しかし自動車を考えてみてください。タイヤやワイパー、バッテリーやオイルなど交換する部品がいくつかあります。あなたの愛車“だん吉号”(としましょう)のタイヤを履きかえる前と後で愛車が別人のようになってしまったかというと、相変わらず“だん吉”のままです。それはタイヤやワイパーがマイナー部品だったから、というわけでもありません。エンジンやボディなど主役級の部品を交換したとしても、相変わらず“だん吉”のままです。では、それは全く同じ型式の部品を古くなったものから新品に交換したから変わらなかったのか、というとそうでもありません。塗装を新色に変えたり、容量の大きいグレードアップ部品に交換したとしても、相変わらず大事な愛車だん吉のままです。マニアの世界では、改造に改造を重ねて、気づいた頃にはほとんど原型を留めないほど違うものになり果てていることがあります。しかし、それは自分の追い求める姿に進化させ続けた結果であって、なんだか人の人生そのもののようにも映ります。自動車だけでなく、自転車でもパソコンでもオーディオ機器でも同様です。部品点数が多く、拡張性が高く、エモーショナルな商品ほどこの構造はあてはまります。

 生命の場合には、還元する基本単位がアミノ酸とか二酸化炭素という分子のレベルにまで戻ってガラポンされますが、非生命のモノであっても、モジュール単位であれば“波チック”にはすることができるのです。複雑なシステム製品になるほど、超複雑なシステムである生命に似てくるように思います。システムの必然なのかもしれません。そう考えると、レアメタルを都市鉱山とも呼ばれる不燃ゴミの中から回収するというのもある意味生命チックですね。貴金属を原子レベルにまで戻してから再構築しています。

 製造業の世界にはモジュラー化という潮流が押し寄せています。デジタル化の進行によって、何でもシステム・パッケージにすることが容易になりました。レゴ細工のように組み合わせてモノを作り上げる時代に移行しているのです。最近ではターン・キーといわれて、生産工場そのものがパッケージ商品と化しています。モジュール同士の組み合わせに必要なノリシロ部分はできるだけ冗長に設定し、その規格も標準化の時代です。工場の工程内での“摺り合わせ”を身上としてきた日本の製造業にとっては、どちらかというと悪いお知らせで、あちこちで「モジュラー化め!」と呪詛のように囁かれています。しかし、組み合わせられるモジュールそのものを作る工程には相変わらず摺り合わせが必要です。部品メーカーとしてなら生きていく余地はずっと残されています。じゃあ、組み合わせたセット品は生き残れるのでしょうか?こちらでは要素技術力というよりは企画力が求められます。システムの組み換えによって多種多様な仕様のセット品が提供できます。ロングテールな市場を相手に、カスタム化したニーズを余さず拾える構造になっているのです。