例えば、「HIF-1」(低酸素誘導因子)という、細胞に対する酸素供給が不足した際に誘導されてくるタンパク質がある。これは、酸素を必要とする生物が進化の過程で獲得した遺伝子によるもので、生命の初期段階で重要な働きをする。胎児の初期段階では酸素が不足した環境にあり、HIF-1がそうした過酷な状況を打開するものであることが分かっている。実際、HIF-1遺伝子がないネズミの胎児は生まれる前に死んでしまう。初期の胎児は血管がないため低酸素状態にあるが、HIF-1が働いて酸素の不足を周りの組織に伝え、血管や神経をつくるのである。

 この胎児の成長のために不可欠なHIF-1が、がんが転移する際にも使われているという。がんは血液をつくり栄養を得ながら増殖する。しかし、増え続けると中心部には血液が行き届かなくなり、通常なら低酸素の環境では生きられなくなる。そこで、こうした環境の中で生きられるがん細胞だけが淘汰によって生き残るが、そのメカニズムにHIF-1が関係していることが解明されている。

 まず、HIF-1は、がん細胞の新陳代謝の仕組みを変えて低酸素環境でも生き残れるようにする。次に、がん細胞が動き出す能力を目覚めさせる。こうして低酸素環境下で生き残ったがん細胞は放射線や抗がん剤に抵抗力を持つより強い細胞となって移動を開始し、浸潤・転移へと進む。

 HIF-1は、こうした胎児の成長やがん細胞の転移だけでなく、酸素で生きる生物の生命活動全般に使われていることが分かってきた。例えば、HIF-1は大人になっても酸素を検知するセンサーとして働いている。

 生命の歴史とは、海と陸を行き来しながら低酸素という過酷な環境の中で生き抜いてきた歴史でもある。こうした厳しい状況を克服するために生物はHIF-1遺伝子を持ち続けてきた。「ありとあらゆる困難な状況の中で生き抜いてきた生命の歴史そのものの強さが、がんの強さに反映しているのではないか」と立花氏は語る。

 この番組は、一昨年、膀胱がんの手術を受けた立花氏が、自らの治療の過程を明らかにしながら、「人類はなぜ、がんという病を克服できないのか?」という本質的な疑問に挑戦したものだが、以上見てきたiPS細胞やHIF-1の話のほか、がん遺伝子のパスウェー(細胞を増やす命令の連絡経路)をブロックしても別のパスウェーが働くメカニズムや、本来がん細胞を攻撃するはずの免疫細胞ががんの成長を助けているなどのがん研究の最先端を紹介していく。そして、各分野の研究者を取材すればするほど、がんとは「生命」と表裏一体であることが明らかになっていく。それはつまり、「半分自分で、半分エイリアン」(立花氏)であるということだ。エイリアンを攻撃しているつもりで、自分を攻撃してしまう--。そこに、がん克服の難しさがある。