やれるところからやり始める

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「…皆さん,ありがとうございます。このような素晴らしい会を私のようなもののために開いていただいて。またお忙しいところ足を運んでいただいて。…何て言いますか,胸が詰まってしまって何も言えないんですけど…」。
「田中ガンバレ!」誰かから野次が飛び,会場の一部に笑い声がわいた。
「はい」。田中が続ける。「私は会社人としては失格だと思っています。マネジメントもできないし,うまく話もできないし,すぐに頭に血がのぼりますし。で,でもバイヤーとしての誇りだけはいつも持っています。
 何でかというと,サプライヤーさんの立場でものを考えられるのって,バイヤーしかいないんですよね。いや,そういうよりも,バイヤーはサプライヤーさんの立場でものを考えなくっちゃいけないんです。ただ甘えさせ過ぎてもダメ,常に緊張感を持たせ競争意識を持たせる。何ていうかな,親と子なんですよね。私はダメ親で子供もろくな学校に行ってないんですけど,親って子供のいいところ引き出そうとするじゃないですか。それなんです。

 でも親も逆に,子供から多くのものを与えられている。企業も同じなんです。霜月がこれだけ大きい会社になったのも,お客さんにいろいろな新しい製品を提供できているのも,サプライヤーさんがいたからなんですよ。親って子供のこと絶対忘れないじゃないですか。私もサプライヤーさんのことをいつも考えている。それだけでやってきたんです。皆さんにほめられるような大げさなことはやっていないんですよ。
 それでですね,実のところまだまだダメなんです。やっぱり自分だけでできることは限られている。今回の件でも改めて感じました。自分にとって次やらなければならないことって何かなってね。次は小さな会社に行きます。今度は職人としてではなく,職人を育てる立場としてね。最初は多少へこみましたけど,いい機会だと思っています。今度は新しい購買部を作ろう,と」。

 しばらく間をおいて田中は続けた。「今日ここにこれだけの方がお集まりになられたのを見ていて,私のやってきたことは無駄じゃなかったんだ,って改めて感じました。そして,皆さんに支えられて今までやってこられた,ということを再度教えられました。
 実は,ここにいらっしゃる何人かの方から仕事のお誘いもありました。大沢さんの会社からも確かに。でも今の私には務まりません。まだまだ経験や人間力が足りません。小さな会社の購買部長,人から見れば大した仕事ではないかもしれません。でも,私にとっては大きなチャレンジなのです。そしてやらなければならないことなんです。
 とにかく『やれるところからやり始める』,これが私のスタイルなのです。皆さん,これからもどうぞ応援よろしくお願いします。本日はどうもありがとうございました」。

 会場で一斉に拍手が湧き起こり,拍手はしばらくの間,やまなかった。

エンジニアとバイヤーの境界を越えて

 その数日後のこと。鈴木は自席で自己申告書を書いていた。明日が提出の締め切りだった。
 もう,彼は何の迷いもなくこう書いていた。

「2.異動希望あり 異動希望先:購買部開発購買グループ」

 一人の若手エンジニアである鈴木が,エンジニアの枠を超えてバイヤーとの境界を越える決意をした瞬間だった。