本当のWin-Winとは?

「コーヒーでいいか?」田中が鈴木に尋ねる。
「いや,自分で払いますよ」。
「遠慮すんじゃねぇよ。給料そんなにもらってないくせに」。
カウンターでホットコーヒーを買い,二人は窓際の席に腰をかけた。鈴木がこう聞いた。
「田中さん,飛ばされるわりには明るいですね」。
「えっ,明るいわけねえじゃねえか。給料もそのうち下がるしな」。霜月電機グループでは,数年間の出向期間を超えると,移籍になるルールがある。そのときの給与制度は,子会社のものになる。もともと,賃金を抑えてコストを安くするために会社を別にしているのであるから,田中の給与も移籍時には下がることは明らかだ。
「でもな,暗くなってもしょうがないしな,新しいところで新しいやり方を作っていくのもいいかなって思ってるんだよな。だからだよ。本当の購買部を作りたいんだ。できるかどうかわからないけどな。自分一人じゃなくて組織として」。
「…」鈴木は思わず黙ってしまった。

「プルルルル」田中のPHSが鳴り始めた。
「またか」田中はそうつぶやきながら電話に出た。「はい,田中です。…すみませんが,その件でしたらお断りしたはずですが。…大変いい条件で評価いただいているのは嬉しいのですけど…。…実は今日,人事発令も出ましたので,たいへん申しわけありませんが,またの機会ということで…。はい,はい,すみません。ありがとうございました。はい,失礼いたします」。

 田中は鈴木に顔を向けこう言った。「紹介会社だってよ。登録もしてないのに,どこからか聞きつけて突然電話してきやがった。結構しつこいんだよね」。
「えっ,自分で登録したんじゃないんですか?」
「するわけねえだろ。やり方だって分からないしな」。
「じゃあなんで分かったんですかね?」
「サプライヤーさんの社長さんからの紹介だよ,多分。うちに来てくれって」。
「ちなみに,どのへんですか?」

「…そんなことよりさぁ,さっきの話だけどな」。田中が話をはぐらかしながら続けた。「ちょうど2週間くらい前かな,部長とひどくやりあっちゃって。まあ,言いすぎたかなと思ってあとで謝りには行ったけど,結構購買部員の中でも聞いていた人間が多くてな,購買部長もこのまま籍を置いとくわけにはいかない,っていうことだな」。
「それ,知ってます。私も部屋の外にいたの,分かりませんでしたか?」
「そうか。全然知らなかったよ。頭に血が上ってたからな」。

「何をあんなに怒っていたんですか?」
「もう,いいよ」。
「いや,あれだけ怒ったからには,それなりの理由があるんでしょう?」

[画像のクリックで拡大表示]

「…中国のサプライヤーに発注している部品を,すぐに転注するように検討しろって言われてな。年間2000万円程度の発注だけどな」。
「何でですか,何かトラブルがあったんですか?」
「トラブル? 大ありだよ。トラブル続き,最初はロクなものが造れないトラブルから始まって,それから設備が壊れたってトラブルもあったし,コンテナ1個分のロットで良品が3個しかなかったときもあった。量産化した後はコストでモメる。値上げしないと生産しないって言われて,現地まですっ飛んでいった。現地工場に行って,こっちがどういう付き合いをこれから考えているか向うのお偉いさんに説明したら,いたく感動してくれてな。ようやっといい関係が作れそうだなって,いう感じになったのが3年前のことだ」。
「そんな昔の話なんですか?」
「そう,昔の話だな。トラブル続きで,どうにかしてくれ,何でこんな苦労して中国から買わなきゃならないんだって感じだよな。その時は,とにかく低コストだから,トラブルを何とか解決して採用しろ…っていう話だったんだけどな。今は本当に昔の話がウソのように品質も落ち着いてきた。発注金額も去年から伸び始めた」。

「それって,転注しろって話とどうつながるんですか? どこに転注しろっていうんですか?」鈴木が疑問を感じて田中に尋ねた。
「正確に言うと転注ではなくて内製化。去年の秋口になんとかショックってあっただろ。その後,経済環境がこんな状況になっちゃってな。うちの工場の稼働率なんて最低だぜ。こういう状況でとにかく,社内の仕事を増やして雇用を守れ,だとさ」。

「そんな,無茶な話ですね」。
「まあ経営者としてはしょうがないんだよな,多分。でもな,苦労して作ってきたサプライヤーとの付き合いどうするんだよ。朝礼暮改じゃないけど,石にかじりついても中国調達を増やせ,て言ってたのは誰だ。それが,高くても何でもいいから転注しろだとよ。…鈴木さん,うちの調達方針にどう書いてあるか知ってるか?」
「いや,見たことないですけど」。
「Webに載ってるから一度見てみなよ,美辞麗句のオンパレードだよ。サプライヤーとのWin-Winを大切にしましょう,とかな。本当のWin-Winってどういうことなのか分かっていないんだよ。
 俺は前にも言ったように,サプライヤーとの中長期の関係性をよくしていくことが仕事だと思っている。甘えだけでなく,緊張感と競争環境を持たせること,それがバイヤーの仕事だと思っている。だから中国サプライヤーとも,どういう位置付けで今後つきあっていくか,真剣に考えていた。向うのトップにその話をしたら,『そんなことを言ってくれたバイヤーはあなたが初めてです』って感動してくれたよ。中国サプライヤーは在庫調整弁じゃないんだよ。どう言えばいいんだよ,俺は」。

「…,田中さんが怒るのも無理ないですよ」。
「いや,いいんだよ。もう決まったことだから。それに俺は,こんな購買だったら自分で作った方がいいと思っているから。新しい購買部門をな。」
「…」
鈴木は何も言えなかった。