何で分からないんだ?
「鈴木,購買部の田中さんって知りあいだろ」。同期の川端が鈴木に声をかけた。
「うん。知っているよ。田中さんは樹脂部品の発注担当をしているからね。それが何か?」
「いや,さっき購買のフロアに用事があって行ってたんだけど,田中さんが購買部長とすさまじい大喧嘩。『何で分からないんだ』って田中さんが部長の前で怒鳴ってた。感情的になっちゃって大変だった。大丈夫なの,あの人」。
「えっ,本当かよ」。鈴木は以前,田中が開発部長に,サプライヤの設計費用に関して「金払ってやれよ」と詰め寄った時のことを思い出した。「それいつの話?」鈴木が川端に尋ねる。
「さっきだよ。多分まだ続いていると思う。田中さんも部長も頭に血が上っていたから」。
「誰も仲介に入ってないの?」
「課長連中はほとんど席を外しているみたいだったし,止められそうな人は誰もいなかったみたいだったね」。
「…ちょっと行ってくる」。
「どこへ?」
「購買」
鈴木はそう言い残して足早に購買フロアに向かった。
購買フロアの騒ぎは既に収まりかけていたが,ある部屋から田中の大きな声が聞こえる。部屋の入り口で数人の購買部員が中の様子をうかがっていた。どうやら田中と購買部長の2人で部屋に入り話をしているらしい。
「何で分からないんだ?」「購買の役割ってそういうものじゃないだろ?」「そんなことだから長期的なリレーションが作れないんだ」。大きな田中の声が部屋の外まで洩れ聞こえてきた。
鈴木は思った。「相当頭にきているみたいだな。何があったのだろう。」
「誰に向かって口を利いているか,君こそ分かっているのか」購買部長の怒鳴り声が聞こえた。
「もういい」。田中の怒鳴る声。
その時いきなりドアが開き,顔を紅潮させて額に大粒の汗をかいた田中が勢いよく外に出てきた。部屋の入り口に集まっていた数人の購買部員は,田中の勢いに圧されて通り道を空けるように後ずさり,田中は,あたかもそこには誰もいないかのように大股で自分の席まで歩き,ノートを机の上に叩きつけるとすぐに部屋の外に出て行った。
「田中も相変わらずだな」。購買部長がそうつぶやきながら,既に落ち着いた様子で自分の部屋に戻った。
ちょっと言いすぎたみたいだな。
2週間後のことだった。人事発令に購買部の田中の名前があった。
「2009年10月7日 人事発令 購買部 田中孝 霜月製作所出向」
「えっ,本当かよ」。思わず鈴木は声を上げてしまった。
田中はまだ40代だったはずである。霜月電機でも若いうちからの出向は珍しい話ではないのだが,若手の出向先は大体の場合,海外子会社か戦略子会社だ。ところが霜月製作所は100%子会社の組立外注工場で,社員も100名程度の小さな会社。異動の時期でもないのに出向するのは,相当珍しいケースといえる。