人事制度 自己申告書


 この物語の主人公である鈴木孝は,総合電気メーカー「霜月電機」の入社3年目のエンジニアである。霜月電機の人事制度の一つに,自己申告制度がある。自己申告制度とは,年に一回社員全員が現在の仕事についてどのくらい満足しているか,今後どんな仕事をしたいと考えているか,といったことを所定の用紙に書いて提出するものだ。

 この自己申告書を元に,直属の上長が面談を行い,自己申告書は最終的に人事部に提出される。その内容や配属希望がどの程度実際の異動に反映されているかは不明だが,エンジニアの若手は社内でも引く手あまたのようであり、購買、生産管理、工場などに希望を出せばほぼ100%希望通り異動が可能だという噂だ。

 しかし鈴木の会社のエンジニアは,ある程度キャリアパスが見えている。設計部門内で一通りの仕事がこなせるようになって,新商品の責任者として市場調査から開発,生産,量産化までを商品企画担当者と一緒にやっていく,というのが一般的な技術屋の出世コースだとされていた。

 そのため,若手エンジニアである鈴木にとっては,自己申告書はあくまでも形式的なものであり,異動希望の質問に関しては毎年「1.異動希望なし」に○を付けていた。これは他の若手エンジニアも同様であり,よほどのことがない限り「2.異動希望あり」「3.将来的に異動希望あり」に○を付けることはなかった。


 鈴木も去年までは躊躇なく「1.異動希望なし」に○を付けていたのだが,今年は何となく心に引っ掛かるものがある。それは先日,開発購買グループの前田から聞いた言葉だった。「素晴らしい製品を世の中に広めたいだけだ」。

 自分は今までそんなことを考えたこともなかった。ただ単に,与えられた仕事をどうにかこなしてきているだけ。本当にこのまま設計部にずっといていいのだろうか? ふとそんな疑問が鈴木の心の中に浮かんできたのだった。

 「そうだ,前田さんに聞いてみよう」。鈴木は前田に「ちょっとご相談したいことがあるので今日の昼休みにお時間をください」という内容で電子メールを出した。


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 その日の昼休みの前田からのアドバイスはこうだった。異動希望を出すにしても,開発購買グループだけはやめた方がよい。開発購買グループは鈴木のような若手社員が来る部署ではない。鈴木がいくらやる気を持って,開発と購買のつなぎをやろうとしても,社内の人間からはなかなか受け入れらないだろう。開発を離れてみたいのであれば,生産技術とか実験部門とか基礎研究部門を考えたらどうか?


 前田のアドバイスは明確だった。だが,鈴木としてはどうも割り切れない部分が心に残った。

何で分からないんだ?