筆者は二十数年前、医学記者だったときにある麻酔科医に諭されてタバコを止めたが、止めてから数年間は飲み屋などで他人がタバコを吸っているのを見ると、たまらず1本貰ったものだ。これは、元喫煙者は他人が喫煙しているのを見ると、ミラーニューロンが自動的に活性化するからだという。元喫煙者はタバコに火を点けて口に運ぶ運動を何回もやってきており、ミラーニューロンが活性化されると、この運動に関係する領域も活性化される。つまり、他人の喫煙や薬物摂取を見ているときのミラーニューロン領域の活動が高いほど、渇望が激しくなる。

 メディア(ゲームや映画を含めた広い意味で)上の暴力シーンに誘発された「模倣暴力」にもミラーニューロンが関係しているという。とかく人間は、自分には自主性があって自分が見たものをそのまま模倣するようなバカなことはしないと思いがちだが、「私たちの脳内のミラーニューロンは私たちにそうと気づかぬまま自動的に模倣を行わせており、その結果、私たちは強力な社会的影響によって自主性を制限されている」(本書p.255)とイアコボーニは見る。

 ここでいう「自主性の制限」とは、人間とは「自主性を持っている」と思いがちな存在であるということを前提にしている。根底にあるのはデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったように、独立した我つまり自己が脳の中で思考した観念に基づいて、身体が運動するという考え方だ。しかし、ミラーニューロン研究で分かってきたことは、こうした考え方を逆転し、身体や運動が脳の思考や観念を形成しているということである。

 著者のイアコボーニはイタリア生まれで、西洋人としての考え方が染み付いているからだろうか。この「自主性の制限」についての記述が頻繁に出てくる。日本人にとっては、個人は他人との関係の中で規定されるといった考え方は比較的受け入れられやすいが、西洋人にとっては特に、大きなパラダイム変化を意味するようだ。

 そもそも自主性の根源である「自己」の存在そのものについて、ミラーニューロン研究は再考を迫る。前述したように、イアコボーニによるとミラーニューロンは赤ん坊が親と模倣し合う相互作用によって形成されると考えられているが、このとき、ミラーニューロンの中では「自己」と「他者」は交じり合った状況である。もちろん、成長と共に自己の行動に対してよりミラーニューロンがより強く活性化することによって自己意識が形成されるといったことが分かってきているが、それでも独立した自己が行動を規定するというこれまでのデカルト的な考え方は修正を迫られる。