先般ベルリンで開催された陸上競技の世界選手権大会は、ウサイン・ボルト選手の独演会でした。超絶としか言いようのない大記録の連発、昨夏の北京五輪に続いてのパフォーマンスの再演に、関係者は心底から度肝を抜かれました。間違いなく短距離の歴史上、最も偉大な選手と呼んで良いでしょう。ややマニアックなコメントになりますが、特に200mは圧巻、あの「神」と呼ばれたマイケル・ジョンソンのタイム19秒32(1996年)を大きく更新しました。当時、もう人類には永久に破れないのではないかとまで言われた大記録でしたが、これをあっさり更新した姿は目を疑うばかりのものです。ドーピング問題や、高度に計算されたトレーニングの賜物という感じがまるでなくて、カラッと野性的なところがまた彼の魅力です。いるんですね、人類60億人の中にはあんな偏差値の高い個体が。「ボルトさんのスタミナ源はジャマイカ特産のヤム芋だそうだ」ということで、世界の医薬品メーカーが群がっているとかいないとか…。

 向こう100年は破られないだろうと予言された大記録が、あっさりと更新される場面を目の当たりにしたわけですが、同じ陸上界において、もっともっと高い確度で「これこそ、本当に破れない」と囁かれる大記録があります。それも3つ。女子の短距離、100m、200m、400mと3種目とも全てが、当分破られる気がしない大記録です。いずれも80年代の記録で、20年以上が経っていますが、その間、世界のトップアスリートたちが全く近寄ることすらできない状態が続いています。今回の世界選手権の優勝記録との乖離をご覧下さい。

 短距離競走では絶望的なほどの落差があります。この理由はずばり、いずれも薬物疑惑が残る大記録だからです。1970~80年代とは、旧東ドイツなど東側諸国が国威発揚のために、後先を考えずにホルモン剤や筋肉強化剤などを生身の選手に乱用した時代でした。多くの選手が後遺症に悩んでおり、使わせた側に有罪判決も出ています。ジョイナー選手は米国の選手ですが、記録達成後早々に引退し、その後急死されたために、検証騒ぎは沙汰やみになってしまいました。女性アスリートの場合、ホルモン剤などの投与で男性化することが成績の向上に直結することがわかっているだけに、この種の疑惑は常について回る宿命があります(ただ、これらの大記録は正式に公認された世界記録であり、彼女たちの名誉を傷つけるつもりはありません。そういう時代背景だったということでしょう)。

 国威発揚のためのスポーツ選手養成というニュアンスでは、遅れて来た中国の時間帯があります。90年代半ばの女子長距離界は馬俊仁コーチが率いる馬(マー)軍団が驚異的な世界記録ラッシュで席巻した時代です。93年に記録された王軍霞選手の3000m:8分6秒11、ならびに、10000m:29分31秒78の記録は、先と同様に不滅の記録と言われます。抜群のトレーニング量に加えて「伝統の漢方薬」という当時のドーピングの死角をついた食餌療法が活躍の秘訣と喧伝され、スッポンやら、朝鮮人参、冬虫夏草やらが話題になったことを覚えていらっしゃる方も多いでしょう。