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 けれど、その時代の刀、各時代に作られた名作を完全に、現代に蘇らせることはできないと河内は言う。「鎌倉時代の刀を作るんなら、鎌倉時代に戻らな本当は無理なんや。しょせんは人間がやること。その人間は、環境にどうしても影響されるもんな」。

 そもそも、その時代の名刀に使われている地鉄がどういった素材のもので、どのようにして作られたかさえ今となっては正確には分からない。そのような状況で、過去の名刀と同じものを作ることなどできはしない。

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 仮にできたとしても、そのことに意味があるのかという問題もある。極論すれば、過去の刀があればそれで事足りてしまうからだ。それでも、日本刀の世界では、過去の名刀を手本とし、それに迫ることを目標とすることが営々として続けられてきた。ただそれは、コピーを作るということではない。名刀に迫ろうと模索する過程で、ときとして新たな名刀、新たな作風が生まれる。それらがまた後世において、高く評価されるという歴史を繰り返してきたのだ。

「コピーを作るという仕事自体は、あまり面白いもんではない。けど再現してみると、その時代の人たちの生活様式、技法までもが見えてくる。そこに意味があるねん。当時の生活の息吹がある。時代そのものを感じるわけや」

 過去の名作に迫り続ける意味を河内は語る。そしてこう続ける。

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「コピーを作ってみるだけではダメ。その仕事を通して何かを掴み取ることが大事なんやけど、それだけでもダメ。僕はその上で、創出せなあかんと思っている。虎徹(こてつ)、真改(しんかい)、助広(すけひろ)、清麿(きよまろ)。これら名工と呼ばれる人たちはみな創始者ですよ。だから名前が残っている。ただコピーを作っていても、名工と呼ばれるようにはならんわな」

 河内が名を挙げた江戸期の刀工たちは、例えば助広の濤瀾刃(とうらんば)と呼ばれる刃文など、みなそれまでにないものを生み出し、それによって名を高めてきた。
「自分のもん作らなあかん。でも変わったことをすればええというもんでもない。自分の思い込みで変なことして、これが河内やいうても誰も認めんわな。それは、変えてるだけや。特徴やあらへん。本人が死んだ後に、これが河内やって言われるようなものが、ほんもんや」