「けどな、へたになるんは難しいで。書でも絵でも、かけばかくほどうまくなっていく。そう思わんでも、自然にうまくなってしまうもんや」。ところが、熊谷や中川はかいてもかいても「へた」さを失わなかった。どうやったらそんなことができるのか。それが河内にとっては謎なのだという。
逆にいえばそれは、河内が「上手に書く」という段階をクリアし、さらなる高みを希求していることの証なのかもしれない。上手、下手という軸を超えたところにある味わいというものに、その手がかりを感じているのだ。そしてたぶん、その先にはさらなる設問が用意されている。刀の世界で、そんな美の境地を切り開くことは可能なのだろうか。
書や画では、「できる」と証明した人たちがいる。中川や熊谷はその典型だろう。けれど、日本刀は、その姿から刃文、茎のヤスリ目に至るまで様式が決まっており、そこからはずれたものを作ることは基本的にできない世界である。美的センスをそこに加えることはできるかもしれない。けれどもそれは「沸出来の互の目乱れ、物打辺焼幅広く刃中金筋流し入り」などと伝統的に表現されてきた様式の範囲内のことだ。
そんな様式美の世界、技の高度さを競う世界で、河内が敬愛する作家たちが到達した「へただけど圧倒的な味わいがある」といった美の境地が存在し得るのだろうか。
見上げるところは、もはや未踏の境地である。(文中敬称略)