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 この後、諸職に回して施す刀装(とうそう)の世界も併せて、日本刀は鉄の鍛造だけでなく、日本の様々な伝統文化を内包した総合芸術でもある。無限に連なっていく伝統文化への理解も含めると、刀匠が身につけておくべき「教養」は、鍛冶仕事のみでなく多岐にわたることになる。

 弟子に心がけさせるだけでなく、河内自身も諸芸に、空いた時間を見つけては打ち込んでいる。「修練やとか言っとるけどな、ほんまはただ無性に好きなだけなんやけどな」。そういう河内が夢中になっているのが書。その延長として最近では、墨絵にも取り組む。「アトリエ」とも呼ぶべき制作専用の部屋まで作ってしまうほどの気の入れようだ。

図14

 それほどまで書に打ち込むようになったのは、「美しい銘を切れるようになりたい」という気持ちあってのことだろうが、素晴らしい先達たちとの出会いも大きかったようだ。まず、河内が名刺に用いている名前の文字は、親交のあった故・清水公照(しみずこうしょう)の手になるものである。清水はその書や画で根強い人気を誇る人だが、本職の書家ではなく、東大寺別当、華厳宗管長も務めた高僧である。その書風は飄々として自由。それでいて高雅さを失わないところは、僧としての境地故か。

 河内はその清水の書が大好きで、生前、「刀屋さん、墨を磨りに来てくれんか」とお声がかかると、飛んでいって助手をかって出たのだという。「まあとにかく書くのがお好きでねぇ、書けるものだったら何にでも書いとった。草履にまで書いとったもんな」。

清水公照(しみずこうしょう)書。のれん用だが、河内はアトリエの壁に飾っている。
清水公照(しみずこうしょう)書。のれん用だが、河内はアトリエの壁に飾っている。

 清水以外にも、河内が深く敬愛する故人の作家が何人かいる。中川一政であり、熊谷守一である。その二人にしても、本職は画家ながら、書の人気はすこぶる高い。そして、清水を含めて共通しているのは、いわゆる書家先生の流麗、あるいは豪快な書風とは正反対に、その書も絵も一見稚拙、いわゆる「ヘタウマ」であることだ。熊谷守一には、昭和天皇に「この絵は何歳の子が描いたのか?」と言わしめたという伝説もある。

 その熊谷にしても中川にしても、壮年期の作品には圧倒的なデッサン力を示す、実に「うまい絵」が少なくない。それが、歳を重ねるごとに「へた」になっていき、技巧と反比例するように作品の魅力は増していくのである。晩年の熊谷などは「絵でも字でもうまくかこうなんてとんでもないことだ」と語っていたという。