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 続けることができたのは、共に過ごした師の宮入が、真に心酔に足る存在だったことが大きい。
「三回忌の時だったか、亡き宮入のことを書いてくれって言われたりもした。でも書けんかった。書くとしたら『仕事場では厳しい、普段はやさしい』くらいしか書けんもん。まったくその通りだったけど、そう書けば『何や平凡な人やったんやなぁ』と人に思われかねんからな」

 そう言いながら、師とのエピソードを次々に楽しそうに語る河内の心の中で、宮入は「最後のほんものの職人」として今も変わらず大きな位置を占めている。

図5

 その後、隅谷正峯(すみたにまさみね)に再入門するのだが、それは行き詰まりを感じていたからだったという。宮入の元で、修業とお礼奉公をつとめた河内は30歳の時、東吉野で鍛冶場を構えて独立した。それから10年と少しが経っていた。3年目に初受賞を果たしたのに始まり、新作刀展の特賞を6回取っていた。順調すぎるほどの船出である。このまま行けば名匠の称号でもある無鑑査も確実だろう。誰もがうらやむ状況だった。

 ところが、当の河内は悩んでいた。この先どういうものを作っていったらいいのか、さっぱり見えてこないのである。宮入から教わった相州伝(そうしゅうでん)だけではなく、備前伝(びぜんでん)などほかの手法にも挑戦してみたいと思い始めたのも、そのためだった。

 そんな時、ある集まりで備前伝を得意とする隅谷の話を聞いた。
「理屈をきっちり言うんや。そこが面白いと思って手紙を送ったんや。2回くらい送ったけど、断られた。でもこっちの決心は変わらんからな」

図6

 既に名をなし、家族も持ち、しかも流派の違う刀匠の元で学んでいる。そんな河内からの入門依頼に対して、隅谷も返事をするのに困っただろう。それをものともせず、河内は強行突破を図る。家族を連れて隅谷が住む金沢に引っ越したのだ。
「子連れで金沢にアパート借りて、毎日仕事場に通うわけや。毎日のぞいとったら、ちょっと手伝おうか、みたいなことになるやろ。そうなったらこっちのもんや。僕、結構うまかったからね」

 左利きを直すのに必死だった宮入の元での修業時代とは訳が違う。すでに卓越した技術を身につけている。手伝いをしているうちに、先方もその腕を便利と感じるようになったのだろう、やがて仕事場に入れてもらうようになり、理論的な作刀法を間近で見て、さらに体験することができた。