Flash版はこちらから:Flash Playerが必要です


図1

 仕事場の窓から、斜面いっぱいに杉が植えられた山が見える。その稜線は、緩やかな波模様を描き、空と大地の淡い境目となっている。河内國平(かわちくにひら)が奈良の東吉野へやってきてから、はや37年が経った。所用で都会に出るたびに、ここの美しい風景がかけがえのないことを改めて感じるという。

 その河内が刀匠となったきっかけは1冊の本だった。もともと14代続く刀匠の家に生まれ育った。しかし、父親の河内守國助(かわちのかみくにすけ)は刀の仕事から離れていた。河内も、日本刀で食べていくのが難しいことは分かっていたつもりだった。ところが、関西大学4年生の時、人にすすめられて手に取った宮入昭平(みやいりあきひら)の自伝『刀匠一代』によって彼の人生は大きく変わってしまう。

図2

 宮入の語りによって描き出された、厳しくも豊かな半生は、河内を虜にした。1週間、眠れないほどに興奮したという。特に最後の「せめて一人でもよい。将来を託せるような刀鍛冶が生れてくれないか」という一節は心に響いた。そしてついに、「自分がその一人に」と心を決め、長野に住んでいた宮入の門を叩いた。

 大学の恩師の後押しや、父親と親交のあった刀剣店の店主らの助力があった。いくつかの幸運も重なった。そして入門を許された河内は、大学の卒業式を終えるとそのまま、宮入の弟子となる。

 「オーバーに言えば、敷地から出ん毎日でした」と河内は振り返る。休みもないような修業時代は、決して楽なものではなかった。

図3

 入門して、まずやらなければならなかったのは、左利きを右利きにすることだった。職人仕事は右利きを基準にすべて考えられている。ところが河内は右利きの体勢で向こう鎚をふるっても、鋼を平らにすることすらできない。仕事場に立つ前に廊下の雑巾がけを右手でやることから始めざるを得なかった。

「もう涙々。自分以外のみんながどんどんうまくなっていくのが分かるからね」。自分が不器用だったからと河内はいうが、それだけでもない。当時は内弟子が6人もおり、なかなか仕事をやらせてもらえる機会に恵まれなかったのだ。理不尽と感じ、やめたいと思うこともあった。別の刀匠の元へ行こうと。ところが、公衆電話から電話しようにも、昼休みまで外出はかなわない。どうにか我慢して昼になると「ここまで過ごしたんだからもう半日我慢してみよう」と思う。夕方になったら今度は「12時間も我慢できたんだから明日まで待ってみるか」となる。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか決意も揺らいでゆく。「努力と辛抱ができるのは一つの素質とも言える」という、河内本人の言葉を地でいく修業時代だった。