「黒須成形技術展示会」

 この物語の主人公である鈴木孝は総合電気メーカー「霜月電機」の入社3年目のエンジニアである。鈴木が担当しているデジタルカメラやデジタルビデオは新製品開発のスパンが極めて短い。デジタルカメラの新機種開発,量産立ち上げをしたばかりだと思っていたのに,2年先の新製品開発のキックオフが数日後に迫っていた。

 まだ詳細は分かっていないが,ハイエンド機種で他社同等の機能を持ちながら,6万円を切る売価を目指すという噂もささやかれている。鈴木の事業部にとって最重要な製品開発の一つであることは間違いない。今までと比べてコストはほぼ半減しなければ収益が確保できないはずで,つまり現状の延長ではとてもコスト目標は達成できない。鈴木は,樹脂成形か何かで,コスト削減に大きく貢献するような新技術を探さなければ,と考えていた。

 そんな時に目についたのが「黒須成形技術展示会」のポスターだった。技術展示会とは,取引がある,もしくは新規の取引開始の候補になっているサプライヤーが,鈴木の会社のような大手企業に対して行う新技術の紹介の“場”である。設計者は普段,サプライヤーの新技術の情報に触れられる場面はあまりない。サプライヤーの技術部のスタッフとは毎日のように顔を合わせているにも関わらず,どうしても日常業務を優先してしまうからだ。技術展示会は,エンジニアが新技術の動向を知るにはたいへんよい機会だ。

 技術展示会は,サプライヤーからの依頼を受けて購買部が開催する。主催した購買部の黒須成形担当は鈴木もよく知っている田中である。田中はこのような展示会を定期的によく開催しており,2カ月前にもまだ取引がない中国のサプライヤーの技術展示会を開催していた。

「黒須成形技術展示会会場」という案内を横目に,鈴木は受付を済ませて会場に入っていった。会場の中には見たことがある顔が多くいた。購買部の田中も,スーツ姿の黒須のお偉いさんと話をしていた。

「ふーん,樹脂成形といってもいろいろやっているんだなあ」。鈴木は説明員からいろいろと説明を聞きながら感心していた。黒須成形はあまり大きな企業ではない。売上高100億円程度の,中小企業と中堅企業の境界にあるような会社である。当然のことながら研究所のような組織もなく,設計者が日常業務の傍ら新技術,基礎技術研究を行っているのに,これだけのものを出してくる。やはり技術開発というのは製造業にとってはものづくりと同じくらい重要なんだな,と改めて鈴木は感じた。

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「鈴木さん,よく来てくれたね」。購買部の田中が鈴木に声をかけてきた。
「あっ田中さん,どうも。いろいろ参考になりますね」。鈴木が答える。
「そうだね,技術展示会というのはとても地味な活動だけど,鈴木さんのような忙しいエンジニアさんにサプライヤーの技術を知ってもらういい機会だからね。黒須も気合いが入っているよ。彼らは中国進出に後れをとっているから,どうしてもそのハンデを技術力で埋めたいと考えているんだ。あっ紹介するよ。黒須の社長と取締役技術部長が来ているんだ。会ったことないだろ?」
「えっ,そんな偉い方と名刺交換だなんて,ちょっと気おくれしてしまいます」。
「柄にもないこと言うんじゃないよ」田中はそう言って,鈴木を黒須成形の社長と取締役技術部長に紹介した。田中は黒須の2人に鈴木をこう紹介した。「彼は若手エンジニアの中でも勉強熱心な将来の弊社を担う設計者です」。

設計に必要な情報って何だ?