前回述べたように,米Intel社やApple社のビジネスモデルの共通点の一つは、自らのレイヤーに安住することなく,他のレイヤーを取り込んだ新しいビジネスモデルを生み出した点にある。そこには不連続なある種の飛躍がある。もちろん新モデルを考え出したこれらの企業の経営者が個人的に優れていたからではあるが、個人崇拝に終わるのではなく,何か他の人にも参考になるような普遍的なヒントはないものだろうか。

 この4月に発行された『ビジネス・インサイト---創造の知とは何か』は,優れた経営者が新しいビジネスモデルを生み出す「メカニズム」に迫ろうとしている。著者の石井淳蔵氏は,新しいビジネスモデルが生まれる時に働く知を,「ビジネス・インサイト」と呼ぶ。その基本となる考え方は,マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』にあるという。日本では暗黙知と言えば,匠の技のようなものを指すことが多いが,これはマニュアルという形で形式知に置き換えることのできる「名詞としての知」だという。これに対して,ポランニーが唱えた「暗黙知」とは,それとわからないうちに知ってしまう「プロセスとしての知」だとする(本書p.96-97)。

 ポランニーは,「暗黙知」を特定の「優れた」人だけが持つものというより,本来人間なら誰でももっているものだとみる。例えば,人は誰しも,人の顔を認識するとき,目や鼻や口といった特徴をまず認識したうえで,顔全体として他の人と区別して認識する。目や鼻や口を無視して,全体として認識できるわけではないが,顔全体を認識した後では,目や鼻や口の特徴がどうであったかはよく覚えていない。つまり,目や鼻や口を手がかりに,顔全体を認識したにもかかわらず,どのようなプロセスで顔全体が認識できているのか,自分ではよく分からない。

 これと同じことが,科学上の大発見でも,ビジネスモデルの発案でもさまざまなシーンで起こっていると考える。例えばプランクやアインシュタインは,誰でも知っていたデータから,量子論や相対性理論という全体像を発見した。Intel社やApple社の経営者は同じような環境にいた企業がほかにもいた中で,新しいビジネスモデルを思いついた。しかし、彼らはなぜそのような発見や創造に至ったのか自分では説明できない。

 自分では説明できなくても、彼らは、サイエンスやビジネスのシーンで「暗黙知」を操る術に長けていたはずである。どのようにして彼らはその「暗黙知」を身に着けたのか。そのヒントの一つが,「対象に棲み込む」(「内在化」とも言っている)ことだという。

 棲み込む対象はさまざまだ。「人」だったらその人の立場に立ってその人の気持ちに成りきる。「知識」だったら理論を解説として聞くだけでなく実際にさまざまな問題を解いてみる。「事物」だったら,「その事物が外からの目でもって何かと決めることでなく,その事物のあらゆる可能性に考えを及ぼしてみることである」(本書p.117)。

 この棲み込む対象とは,先ほどの顔の認識で言えば目や鼻や口であり,量子論や相対性理論であればそのときに明らかになっていた個々の実験データだ。ビジネスモデルで言えば,その時に製造したり売っている製品であったり,顧客であったりする。これらは「近位項」と呼ばれる。棲み込んだ結果,生み出される,顔全体の認識であったり,新理論であったり,新ビジネスモデルが「遠位項」である。

 問題は,こうした暗黙知やビジネス・インサイトを生み出す力を鍛えることができるかどうかである。著者の石井淳蔵氏は,マニュアルやモデルのような形で示すことはできないが,「ビジネスにおける前例となる事例(ケース)」を材料にした「ケース教育」によって「対象に棲み込む」などのポイントを学ぶことができるのではないか,とする。

 「対象に棲み込む」こととは、その分野の徹底的な専門家になる(近位項)と同時に,他の領域に目を広げて全体像(遠位項)を見るという一見相反することを,同時に達成しなければならないということのようだ。または,近位項を担当する人と遠位項を考える人がもっと連携する必要があるということかもしれない。

 光ディスク事業でプラットフォーム型のビジネスモデルを考案した三菱化学の小林喜光氏が日経ものづくり誌のインタビューでこう言っている(『日本,ものづくりの神髄』,p.135)。

 「(前略)単純なものづくりなんてもうあり得ない。何か秘伝のたれ的なものを持ちながら,一方でビジネスとして世界市場を勝ち抜く仕掛けを考える。そういうことをもっと議論していかなければならない。だけど今の日本はそういうことを議論するだけの人と,やたら秘伝のたれだけを造って喜んでいる人がいて,うまくつながっていないような気がします」。