まずはコンサルタント業で経営を安定化

 創業直後は会社存続のために、講演などの“日銭稼ぎ”を余儀なくされた。「自社の系列外から部品購入を代行する“伝票書き”という変わった仕事もした」という。詳細は話せないが、ある程度儲かったという。この辺の事情は、事業戦略をあまり練らないで創業した結果のようだ。

 当時話題のソニーのリチウムイオン2次電池事業を立ち上げた中心メンバーの一人として有名だった小沢社長に、リチウムイオン2次電池についてのコンサルタントを依頼する企業などは多かった。相談も多かった。その一つがサレジオ工業高等専門学校(東京都町田市、当時は育英工業高等専門学校)だった。同校はオーストラリアで開催されるソーラーカーレースに参加するには、電池が重要と考え、小沢社長に相談した。カーレースの走行条件を聞いて、「リチウムイオン2次電池を使えば、電池性能の差で勝てる」と読んだ。他のソーラーカーは鉛電池やニッケル亜鉛電池などを使っていたからだ。

 実際に、小沢社長の尽力でリチウムイオン2次電池を搭載したサレジオ高専のソーラーカーはいきなり第3位に食い込む好成績を示した。第1位の本田技研工業(ホンダ)を抜く可能性もあったと小沢社長は分析する。当時は「リチウムイオン2次電池は車載用としてはまったく知られていなかったからだ」という。

 ソーラーカーでの実績はすぐに有名になり、その後はソーラーカーなどのレースで勝つには、エナックスのリチウムイオン2次電池システムが不可欠との評判を取った。このことは、小沢社長にリチウムイオン2次電池のコンサルタントを依頼し、ソニーとは異なるリチウムイオン2次電池をつくる企業との協力関係づくりにも役だったようだ。コンサルタントでは、1997年に韓国のLG化学のリチウムイオン2次電池製造プロジェクトを担当し、製造設備の開発、製造、販売を支援した。

 この時に、小沢社長はどんな小さな仕事でも断らないとの方針を貫いた。相手が解決してもらいたい問題を解決し続けることは、市場ニーズを知り、解決策のノウハウを蓄積することになるからだ。「仕事を断らない方針は現在でも堅持している」という。

 小沢社長の実績を聞きつけて、1998年にベンチャーキャピタルのジャフコ(JAFCO)は同社に出資した。リチウムイオン2次電池のコンサルタント事業が将来性があると読んだからだった。

 ところが、小沢社長は同社の株主総会などで「コンサルタントは男子一生の仕事ではない」と発言し、出席者をあぜんとさせた。「実際にコンサルタント業で稼がせてもらっていながら、本音は研究開発成果を基に事業をするのが本当の生き方」と信じていたからだった。“試合”の戦略・戦術を助言するコンサルタントよりも、実際に試合に出てプレーし、勝負するプレーヤーの方が数倍面白いからだった。

 事業化をやりたくて仕方がなかった小沢社長にすぐに好機が訪れる。リチウムイオン2次電池システムの製造で協力してもらっていた企業から山形県米沢市にある土地を提供され、エナックス研究所を設立した(2000年にエナックスに吸収合併)。研究開発に本腰を入れる契機となった。

独自のラミネート構造を開発し事業化