さて,しかし米国企業も売り上げ拡大に興味がないわけではもちろんない。80年代,急成長した日本の半導体産業に米国側は政治的に圧力をかけた。日米半導体貿易摩擦と呼ばれるものだ。このときの米国側の主張は主に以下の3点である。
(1)半導体産業の創成に貢献してこなかった日本の半導体メーカーが,米国の基礎研究の成果を一方的に享受するのは公正でない。
(2)日本は政府主導で「超LSI技術研究組合」など海外勢を排したコンソーシアムを結成しており,自由競争原理を遵守していない。
(3)結果として米国企業は多大の損害を受け,失業や倒産などの問題が生じた。これに配慮して日本の半導体の総需要のうち20%を米国から輸入せよ(20%という数字は両国の協議により決定した)。

 (1)については,そもそも先行開発は特許制度で保護されている。キルビー特許事件の例を引くまでもなく,日本メーカーは米国メーカーに巨額の特許使用料を支払ってきた。(2)のコンソーシアムは研究開発のためのもので,ビジネスの自由競争を阻害するものではない。(3)については結局,日本は米国の主張を認めてしまった。理不尽というほかはない。今日,人員削減や報酬カットを余儀なくされている日本の半導体メーカーを,いったい世界のどの国が救済してくれるだろうか。自由貿易の原則に背き,自国の利益を大きく損ねてまで。

 また,対米/対欧の貿易摩擦を回避するために日本の大手半導体メーカーは当時,米国や欧州を中心に現地工場を設立,現地生産に乗り出した。しかし多くの海外工場は採算性に問題があり,すぐに重荷となって90年代には一部を除いて次々と撤退するはめになった。結果として,いたずらに経営にダメージを残すことになってしまった。

業界構造が変わった90年代

 90年代は激動の時代である。コンピュータのダウンサイジングが起こり,パソコンが半導体の最大のアプリケーションになる。そのパソコンはインターネットで世界中につながり,米社製OSとLSIの連合軍「Wintel」が世界を席巻する。この図式は今も続いている。Intel社は「Pentium」などのマイクロプロセサの設計技術と「Copy Exactly」という工場戦略でよみがえった。自社製造を貫き,ノウハウや技術は一切,外部に出さない。業績が世界トップを独走しはじめる1994~1995年頃までは,PRレベルのものを除き,国際会議で技術に関する論文発表をほとんど行わないという徹底ぶりだった。

 半導体業界ではビジネス・モデルが大きく変わり始めた。従来はIDMがほとんど唯一のビジネス・モデルだったが,ファブレス企業が現れ,ファウンドリーが登場した。業界の主戦場は,DRAMの量産競争からチップ設計技術の付加価値競争へと移っていった。Intel社のマイクロプロセサや米Texas Instruments Inc.のDSPなどが,いうなれば半導体業界の華になり,一方で,相対的に付加価値の薄まったDRAMの製造は,日本から技術供与を受けた韓国や台湾のメーカーが引き受けることになった。これまでチップ・メーカーが担っていたプロセス開発を,基礎的なものから徐々に装置メーカーが担当するようになったこともあり,急速な技術拡散が起こった。これにより,日本メーカーが得意とする技術競争から,アジア勢に後れをとりがちなコスト競争へ,時代の転換が加速された。ここで見落とせないのは,この技術拡散を日本メーカーが助長したことである。