筆者 前回は,日本メーカー,特にエレクトロニクスメーカーがなぜ戦後から80年代にかけて競争力を上げることができたのかについて考えてみました。一つの見方としては,労働集約型技術など日本が伝統的に持っていた力をうまく生かして,欧米の資本集約型技術やリニアモデルにうまくキャッチアップできたということですね。そしてついに,80年代に入って欧米メーカーを凌ぐまでになります。しかし80年代後半以降,この強みは弱みに転化してしまいます。80年代の半ばと2000年代の半ばに2回変曲点を迎え,日本メーカーは競争力を落としていったわけです。まず,1回目の変曲点から見ていきたいと思います。そもそも何が起きたのでしょうか。

藤浪氏 1985年のプラザ合意は,欧米諸国の日本に対する“イチャモン”のようなものですが,いずれにしてもそれをきっかけにして起こった大きな環境変化が「第1の変曲点」です。しかし,「変曲点」と言いつつ,実は日本メーカー自身は当初あまり変化しなかった,というのが私の実感です。前にも言ったように日本は絶好調の状態でプラザ合意を迎える,または迎えさせられます。そのために,円高という大きな外部環境の変化の中でもリニアモデルという成功モデルを疑うことはしなかった。

目指す方向が正反対だった日米

筆者 それに対して,米国ではリニアモデルを見直す機運が高まっていったわけですね。

藤浪氏 米国ではそれより前の70年代ごろから,「コングロマリットディスカウント」(注:企業全体の価値が,個別の事業部分の価値の総合に比して低下して株価が下落する状況のこと)という指摘が出てきて,リニアモデルの担い手としての垂直統合型の大企業は解体の方向に向っていました。つまり,日本と米国のメーカーは80年代時点で,日本メーカーはリニアモデルを志向しているのに対して,米国はマーケットインの発想をベースにそこからの脱却を志向していたということで,目指す方向は正反対だった,ということが言えます。または,変化のスピードがまったく違っていた。

筆者 米国のエレクトロニクスメーカーは当時日本の攻勢によって大打撃を受けていました。負けていたために,なんとか競争力を再び上げようとして,自らを変革していったと言えるでしょうか。

藤浪氏 確かに,日本メーカーは,当初はプロセスイノベーションの部分だけで優位性を持っていたのが,そのうちプロダクトイノベーションでも主導権を握るようになりました。ウォークマン,コンパクトディスク,カムコーダ,オートフォーカスカメラ,インクジェットプリンタなど,日本が開発したエレクトロニクス製品が1980年代に相次いで登場して,世界を席巻します。

筆者 しかし,米国には,日本が開発した製品であってもその大元の基礎研究の部分は米国発だという思いが強かった…。

藤浪氏 そうですね,日本メーカーはそのころから,「基礎研究の部分はただ乗りしている」と批判されていて,その負い目をその後も長く背負うことになります。それもあって,日本はむしろ基礎研究部門を強化しました。それに対して,収益の悪化した米国メーカーは,中央研究所を維持することが難しくなってしまったわけです。

筆者 基礎研究をしてシーズをじっくり育てるという悠長なことができなくなった…。

藤浪氏 つまり,短期的にすぐにお金になる分野に投資した。その結果として米国の製造業は,全体としてマーケット志向になっていったわけですね。一方で,日本メーカーはいつ実用化するか分からない基礎研究にお金を使っていたわけで,収益力という面では逆転する土壌が出来たのは当たり前といえば当たり前のことでした。