米GM社の「ポンティアック」と「キャデラック」向けに造った我々ユーモールドのアルミホイールは,米国の技術誌である「モダンメタルス」の1988年度のコンペにおいて,アルミ鋳造品の最高賞を獲得した。世界一の自動車王国から,品質を評価してもらえたのだ。ダイカストマシンや射出成形機といった産業機械メーカーとしてだけでなく,消費財メーカーとしても米国市場に認められたことは,新規事業に挑んできた我々にとって大きな自信となった。この受賞は,日本市場でアルミホイールを販売する上でも大いに役立った。

 GM社では経営方針が変わり,内製するとコストが高くつくといった理由から,部品の内製を減らし,できる限り外注に切り替えることになった。これにより,我々がGM社と組んでカナダに合弁工場を造るという話は消えた。それでも,やはり「バイ・アメリカン(Buy American)」を掲げるGM社としては,いつまでもアルミホイールを日本から輸入し続けるわけにはいかない。案の定,我々はGM社から「技術が確立したら,米国に工場を造れ」という要求を受けた。今度ばかりは逃げられない。早速,ジャック清水(清水和茂君)が米国に造る工場の立地調査やGM社との価格の折衝,宇部興産側の難しい諸条件の打ち合わせなど,数々の難題について持ち前の粘り強さで話をまとめていった。こうして,宇部興産の子会社でアルミホイールメーカーとなるA-Mold社を米国オハイオ州メイソン市に設立することが決まった。ジャック清水はこの新会社の社長に就任した。平成元年(1989年)6月のことだ。

 我々が宇部興産の機械部門として全くの無名だった昭和35年(1960年)に,米レークエリー社と油圧プレス機の技術提携をしてから29年。何も知らない者達が米国から必死に技術を学び,学んだものを歯を食いしばって発展させていった。狭い日本市場で食べられなくなると,背水の陣で飛び出して世界の市場を開拓していった。そして,ついには,かつて師と仰いだ国に企業進出を果たしたのである。しかも,顧客は当時世界一の自動車メーカーだったGM社だ。これが,わずか30年足らずの産業変化の実例なのである。

 しかし運命のいたずらか,A-Mold社の設立が決まった1カ月後の平成元年(1989年)7月,帰米直後にジャック清水が病に倒れた。膵臓ガンだった。膵臓ガンはガンの中でも死亡率が高く,自覚症状が現れにくいことで知られている。A-Mold社設立のための激務で無理をしたことが,身体を弱らせて発病を早めたのかもしれない。無情にも医者からは「あと3~4カ月の命だ」と宣告された。ジャック清水は「一回しかない命,そう簡単に死ねるか」と言って,ガンと2年近く闘った。だが,満身創痍の中で最後の力を振り絞ったA-Mold社の完成を1カ月後に控えた平成3年(1991年)4月,清水君はこの世を後にした。還暦前の若さだった。類い稀なる情熱の持ち主である清水君がいなかったら,宇部興産の機械部門は昔から変わらぬ地方企業の一部門のままだっただろう。また,産業機械から消費財への脱皮などできなかったに違いない。彼の情熱が我々の知恵を呼び覚まし,宇部興産にとって初めての自動車部品産業という水脈を探し当てた。そして,井戸を掘って水を汲めるようにしたのである。

現場知らずの机上の経営

 ユーモールドは生産技術が発展途上のために非能率ではあったが,それでもなんとかアルミホイールを生産し,受注も順調に増やしていた。だが,創業時の大幅な赤字を消す術はまだ見えていなかった。そんなある日,「お前は創業時に余りにも大きな損失を出した」として,親会社である宇部興産の経営陣から,ユーモールドの社長を実質的に解任された。そして,名目的には会長に昇格するという形で,発言権の全くない「中二階」に押し込められてしまったのだ。代わりに,宇部興産から新しい社長が送られてきた。当時の宇部興産の社長の子飼いの人物で,ダイカストマシンともアルミホイールとも無縁のプラント建設の技術者出身だった。

 ユーモールドが造るアルミホイールは品質が良いという評判を得て,受注は増加していた。そこで,工場を増設することが決まった。ただし,なにしろ生産技術が発展途上であるため,リスクがある。そこで,私が社長に在任中はこう考えていた。