プラスチック桶を得れば木桶を失う

 ここまで考えてきて、それもこれも、問題の根っこは同じなのかもと気付いた。何かが生まれれば何かが消える、つまり「何かを得ようとすれば、何かを失う」ということである。なじみ深い表現を使えば、トレードオフ。よく考えてみれば、世の中はあまねくトレードオフで成り立っている。だから人はいつもジレンマに陥る。

 給料を高くすれば社員はよろこぶ。だったらどんどん高くすればいいわけだが、そうはできない事情が必ずあり、その事情は給料を高くすればするほど深刻の度を増す。だから、実際には給料が天井知らずに上がることはない。品質と価格の問題も同じ。品質を上げれば価格も上がり、価格を下げようとすれば品質もやはり低下する。だから、どこを「落としどころ」にすべきかと人は悩む。

 もちろん、長い時間軸でみれば、新技術や斬新なアイデアによって「価格を上げずに品質を上げる」ことが可能になるかもしれない。けれど、ある時点でみれば、やはりトレードオフである。今回のような不景気が世の中を覆うと、あらゆるところで「経費は削減するけど仕事の効率は上げろ」とか「果敢にチャレンジをしろ、でも失敗はするな」といった、トレードオフを無視した檄が飛ぶ。でもそれは「とにかく頑張れ」と言っているに等しく、もはや精神論の部類に属するものである。いや、それが有効という局面があることは否定しないけれど。

 ただ、「何かを得れば何かを失う」というのは、トレードオフを片側からとらえた言い方に過ぎない。逆に言えば、捨てなければ何かを得ることはできない、ということか。江崎玲於奈博士も、何かを得るためには「無用なものはすべて捨てなければならない」と常々語っておられると聞く。

見ない処は見ない

 そんなことを再認識させてくれた寓話がある。私が大好きな中川一政画伯がある画に賛として書かれたもので、出典は、「杞憂」や「朝三暮四」、「疑心暗鬼」などの出典としても知られる「列子」という。

秦の穆公が臣の伯楽に云った
「汝は老年である 後継者を考へてをるか」
伯楽は答へた
「九方皐といふ者がゐます」
穆公は早速その男を召して諸国に名馬を探しに遣した
九方皐は三月たって帰ってきた
「沙丘といふ処で見つけました 牝で黄色い馬でした」
そこで使者をやって連れて来させた それが雄で青色であった
穆公は怒って伯楽を呼びつけた
「汝が推薦した男は馬の雄牝も毛色もわからない
それで馬の見立てなど出来ようがない」
伯楽は嘆息して云った
「あの男はそこまでになりましたか
見るところを見 見ない処は見ないのです」
果たして千里を走る名馬であった