機械に駆逐される匠たち

 そんな懸念を抱いてしまうのは、さまざまな分野で、先細りになる一方の「匠の技の世界」をみてきたからだと思う。例えば、鋏職人。現代の名匠と呼ばれる石塚昭一郎氏の工房は、刃の部分からワッパ(握りの部分)まで、すべて手造りで作り上げる「総火造り」の羅紗切鋏(洋裁鋏)を三代にわたって製造し続けてきた。けれど石塚は、ついにその技を子息たちに伝えることはなかった。周囲は技の継承を薦めたかもしれない。だか、親として、子にそれを強いることができなかった。その修行は厳しく、しかも10年以上の年月を要する。けれど、その厳しさに耐え匠の技を習得したところで、10年先に総火造りの鋏が生き残れている保証はないからである。

 実際、高まる名声とは裏腹に、鋏職人は減り続けるばかりだ。職人に支えられる製品は、高度な「手技(スキル)」に依存する多くの工程を経て完成する。それだけに、誰にでも作れるものではない。だから、匠や職人が減れば、生産量も減っていく。

 何も鋏に限らない。匠の技によって生み出され、近世まで日本の暮らしを支えてきた諸々の道具は、どんどん姿を消しつつある。例えば、。安価なプラスチック製の桶が伝統的な木桶を駆逐し、同じ木桶であっても機械造りの割安な製品に市場を奪われ、昔ながらの手造り木桶は、高級旅館や料亭など、特殊な場所でしか目にできなくなってしまった。一大産地であった京都でも、戦後しばらくは200軒もの桶屋があったが、今では数軒を数えるのみになってしまったという。

 それらが消えていったのは価格で負けたからで、多くの場合、品質で機械量産品が凌駕するようになったからではない。鋏も打刃物和紙も、卓越した匠の技になる手造り品は、機能や耐久力などの面で今でも工業製品の追随を許さず、何よりはるかに美しい。けど、いかんせん値段が高い。高くなるのは、匠の手技にたよっているから、つまり人件費比率が極端に高いからである。私が訪ねた職人の方たちは、例外なく質素な生活を送っておられた。そこから察するに、決して高給を得ているわけではないだろう。それでも、近代的な工場で作られる量産品よりはるかに高くなってしまう。

匠と匠の相似形

 まあこれは、伝統的な手造り品の話である。だから、この分野の職人と、たとえば自動車の板金工のような匠とでは事情が違うだろう。まずはそう感じてしまいがちだが、よくよく考えれば、「どっちも変わらない」と思える部分が多い。

 まず、どちらの分野でも卓越した匠の技は、数カ月の研修を受けたくらいでたちまちマスターできてしまうものではないということだ。何年、ものによっては10年以上に及ぶ実務訓練が必要になる。けれども、その技が何年先まで重宝されるか分からない。10年かけてやっと技を修得したら、もう世の中に求められなくなっていたということが起きかねないのだ。