地方の企業の一部門に過ぎない我々宇部興産の機械部門が,なぜ,遠く米国のフォード社やGM社の懐に飛び込んだのか。その理由は実にシンプルで「メシを食うため」である。第二次世界大戦で焼け野原状態となった日本は,奇跡的な復興を遂げた。その復興を力強く牽引した昭和30年(1955年)代の半ばから始まった日本の高度経済成長が,昭和48年(1973年)のオイルショックでぱたっと止まった。

 今,日本企業は平成20年(2008年)9月に米国で勃発した金融危機に端を発する世界不況のただ中にあるが,オイルショックが日本経済に与えた影響は,それ以上かもしれない。何しろ,鉄鋼1億t,セメント1億t,自動車1000万台,住宅180万戸に膨れあがった日本市場の需要を満たすべく爆発的に増やしてきた生産能力が,このオイルショックを境に一気に生産過剰に陥ったからだ。もうこれ以上,日本市場には必要のないレベルになってしまったのである。

 ちょうどこの頃,マイクロコンピュータが普及し始めて「軽薄短小」という言葉がもてはやされ始めた。だが,我々はその時代の逆を行く「重厚長大」の機械メーカーだ。おまけに,我々の顧客の多くも重厚長大産業である。その顧客はもうほとんど増設はしない。増設をしないということは,新しい機械は必要ないということだ。従って,我々の所に仕事はこない。極端に言えば,産業機械の需要があるのは,その産業が成長する時のみだ。従って,成長が止まると更新需要分の注文しかない。そうかと言って,簡単に「軽薄短小」産業に転換できるものでもない。中・長期的に新しい商品を開発するのはもちろん大切だが,当面のメシを食わなければならないのだ。

 こうした最悪の状況の中,私は42歳で宇部興産の取締役となった。これまで述べてきた通り,油圧プレス機を使ってダイカストマシンや押し出しプレス機,射出成形機などを部下たちとともに生み出し,新規事業として立ち上げて軌道に乗せたことを評価してもらえたようだ。歴史の古い企業ほど,新しいことを手掛けようとする社員は少ない。比較的若い社員を役員にしたのは,当時の中安閑一社長が「お前はもっともっと新しい機械を造ってこの事業を大きくせよ」と発破を掛けたのだと思う。

 ところが,その中安社長の期待に反し,オイルショックで足下の仕事がゼロ近くまで落ち込んだ。私の役員としての初めての仕事は,新しい機械を開発することでなく,人員整理となってしまった。企業として生き残るために,昔からの仲間のクビキリをせざるを得なかったのだ。これほど辛く悲しい仕事は後にも先にもない。それでも,少しでも多くの社員を養い,メシが食えるようにしようと必死になって仕事を探した。これまでに納入した機械のアフターサービスを強化し,それまで外注に出していた小物部品を社内製作に切り替えた。だが,これだけでは焼け石に水だった。

 当時,宇部興産では船舶用ディーゼルエンジンも造っていた。オイルショックによる原油価格の高騰の影響を受け,ディーゼルエンジンの低燃費を目指す開発競争が激化した。だが,改良のために多額の開発資金を要することや採算性の問題などから,我々の技術提携先であった三菱重工業がギブアップの状態だった。

 この船舶用ディーゼルエンジンのビジネスで日本郵船を訪問したときのことだ。私は日本郵船の人に「世界の貿易は伸びているのに,なぜ,船の需要は増えないのですか?」と聞いた。要は,世界の貿易が盛んになる中で,どうして我々のところには船舶用ディーゼルエンジンの発注が来ないのかについて,海運業者の見立てを知りたかったのだ。船舶用ディーゼルエンジンの仕事が増えれば,職場を去らなければならない社員をもっと減らすことができる。

 この質問に対し,日本郵船の人は「どこの国も,自分たちでものを造りたがるでしょう」と答えた。この言葉を聞いたとき,私は自分の考えが足りなかったことに気づき,愕然とした。ある国にある商品の輸入が増加すると,その国は多くの外貨を使ってしまうことになる。それでは外貨がなくなってしまうから,輸入量を減らすために,その商品をなんとか自国で造ろうと考えるのだ。その国に外貨を稼ぐ別の輸出品がある場合はよいが,それが十分にない後進国にとってこう考えるのは至極当然のことである。特に船舶輸送する必要がある嵩(かさ)の張るバルキーな商品ほどその傾向が強い。思えば,日本も過去にこれをやって成長してきた。そして,日本からの輸出商品は次第に小型で高級な商品に変わっていき,体積が小さくなり,船舶輸送よりもむしろ航空機輸送に移行している。そうなれば,ものの輸送量は減少し,新しい造船の需要は少なくなる。この時以来,私はこう考えるようになった。後進国への輸出は長続きしない。後進国への輸出が増えてきた時は,その商品の事業の寿命は終りに近づいている──と。