昭和58年(1983年)に営業担当の清水和茂君はウベアメリカ勤務となり,米国のニューヨークに赴任した。ウベアメリカは宇部興産が1978年に米国に設けた会社だ。現地で「ジャック清水」と呼ばれるようになった清水君は,水を得た魚のごとくの活躍を見せた。彼のターゲットはもちろん,米国の,いや世界の自動車産業のメッカであるデトロイトである。

 ある日,フォード社から大型の射出成形機の引き合いが,ある大手商社経由で我々宇部興産に来た。しかも,その商社の米国支社の社長は我々が長年親しく付き合っている人だった。フォード社は当然ながら,我々以外にも引き合いを出していた。我々宇部興産の競合相手である東芝機械だ。同社とフォードの間を取り持つのは住友商事の工作機械部門だった。実は,住友商事はフォード社とマツダの間も取り持っており,伝統的にフォード社との取引に強かった。だが,宇部興産としても,住友商事経由でなければ商談は不利だ。宇部興産は,マツダと住友商事の合弁会社であるマツダ化成に大型射出成形機を納入していた。そして,その商談の展示工場がマツダ化成だったのだ。

 問題はもう一つあった。フォード社が作成した購入仕様書には,「型締め方式は直圧方式であること」と記載されていたのだ。これに対し,我々はトグル式を採用していた。商社とこの型締め方式の二つの問題を解決しなければ,受注はおぼつかない。

 早速,ジャック清水が動いた。デトロイトのフォード本社にいる購買担当重役のシクルーナ氏にかけあうことにしたのだ。シクルーナ氏とはシェフィールド工場に我々がダイカストマシンを納入した時から付き合いがあった。同氏は山口県宇部市にある宇部興産の本社にもフォード社の副社長と共にやって来て,中安閑一社長と懇談したこともあったのだ。ジャック清水の言い分を受け入れてくれたシクルーナ氏は,商社の問題は受注後に決定すること,そして,型締め方式については,実際に機械を納入するマイラン工場のロギャール工場長と相談した上で,トグル式でも構わないということにしてくれた。

 これで型締め方式の問題は片付いた。残るは商社の問題だ。私は住友商事の輸送機械部門担当だった池田彦二常務に再び相談することにした。前回にも触れた通り,池田常務は我々宇部興産の機械部門がマツダと取引を開始したことで関係ができた,陸軍幼年学校時代の先輩である。ドイツで宇部興産の機械の販売とアフターサービスを手掛けるレベダ氏の商社へ資金を貸し付けてもらう件でもお世話になっていた。私は池田常務に,今回の仕事で我々と組んでいただけませんかとお願いした。そして,「もしも一緒にやってもらえるのであれば,私が責任を持って,引き合いを取ってきた某商社に降りていただきます」と伝えた。陸軍幼年学校の後輩から先輩へ再度のお願いだ。池田常務はこの話を了承してくれた。その後,私は某商社に事情を説明してこちらも了解を得て,我々は正式にフォード社と商談を開始した。

 百聞は一見にしかず。まずは,フォード社のロギャール工場長に日本に来てもらい,宇部興産の工場を診てもらうことにした。そして,それ以上に重要な,山口県防府市にあるマツダ化成の工場見学へ。そこには我々が開発した,徹底的に自動化を図った射出成形機が稼動していたからだ。「シングル段取り」の中でも,わずか5分で金型を交換する射出成形機を目の当たりにして,ロギャール工場長は宇部興産の機械を購入する決断を下してくれた。