昭和56年(1981年)にドイツに出張した時のことだ。ドイツの各地を回り,最終日にレーゲンスブルグに寄った後,シュツットガルトに向かった。そこに到着すると,宇部興産のドイツ駐在員で今回の出張に同行してくれた中村龍介君(後に常務取締役)が「藤野さん,もう一個所だけ寄ってください」と言った。連れて行かれたのは,レバダ氏の所だった。

 レバダ氏は小さな商社の経営者で,イタリアのイタルプレス社の機械の販売やアフターサービスを手掛けていた。中村君はこのレバダ氏の会社に「今後,宇部興産の機械の販売とアフターサービスを担ってもらうから,是非一度,彼に会ってください」と言うのだ。ここまで来て断るわけにもいかず,私は中村君と一緒に行ってレバダ氏にあいさつした。とはいっても,大した会話にはならなかった。このときに残った印象は,奥さんが美人だと思ったことぐらいだ。

 それからしばらくして,そのレバダ氏がドイツのフォルクスワーゲン社からダイカストマシンの引き合いをもらってきたという話が伝わってきた。しかし,その話を初めて聞いた時,私は眉に唾をつけた。失礼ながら,レバダ氏がそれほど優秀だとは思えなかったということもあるが,それ以上に,我々宇部興産の機械部門がまともに相手にされるとは思っていなかったことが大きい。ドイツといえば,米国を凌ぐ機械技術の先進国。我々日本メーカーが「遠い先生」と考えていた国だ。そんな国の中でも,世界に名高いフォルクスワーゲン社から我々に引き合いが来るとは,夢にも思っていなかったのである。ところが,この話が嘘ではないことは,レバダ氏が本当にフォルクスワーゲン社から注文を取ってきたことで証明された。

 受注を知った我々は,当初,喜ぶ以上に驚いた。このことについて後から聞いてみると,中村君の独自の判断が大きく貢献していた。ドイツのバーゼルで開催されたダイカストマシンの見本市に,トヨタ流のジャスト・イン・タイムを支える「シングル段取り」に関して宇部興産の実績をビデオでPRしたのだ。これがフォルクスワーゲン社の技術者の目に留まった。この受注を確実なものとするためには,欧州市場においてアフターサービスの要員が必要となる。そこで,中村君はイタリアの機械メーカーの仕事をしていたレベダ氏を見つけ出し,口説き落として採用するという,実に正しい行動に素早く動いた。宇部興産の機械部門が欧州市場に参入する上で,彼の功績は真に大きいものがある。

 早速,我々は受注したダイカストマシンを設計開発し,組み上げて機械の国ドイツに向けて輸出した。山口県宇部市からドイツへ1号機を送り出したのだ。いつも以上に念入りに検査し,しつこいまでに試運転を繰り返して機能や品質を確認した。そのかいがあって,フォルクスワーゲン社に納入したダイカストマシンは順調に稼働し,好評を得た。

 ほっとしたのも束の間,このビジネスを手伝ってくれたレベダ氏のところで問題が発生した。イタルプレス社から「他社の機械を販売するのは裏切り行為だ」と判断され,レベダ氏はイタルプレス社から縁を切られたというのだ。そこで,「このままでは倒産してしまうから,お金を貸してほしい」と頼まれた。だが,我々には欧州の小さな商社にお金を貸す方法が見つからない。ビジネスライクに取引を切ることは簡単にできるが,そうしてしまうと,我々は欧州市場にせっかく築いた橋頭堡を失うことになる。橋頭堡を再構築するとなれば,それ以上の資金が必要だ。考えあぐねた私は,マツダと取引を開始したことで関係ができた,陸軍幼年学校時代の先輩だった住友商事の池田彦二常務に相談することにした。「次に受注した時のマージンで,レベダ氏に借金を返済させる」という条件で,レベダ氏にお金を用立てることはできないだろうかとお願いしたのだ。

 池田常務も考え込んでしまった。だが,しばらくして「引き受けましょう」という返事をくれた。これで一息つくことができ,レベダ氏の商社は倒産を免れた。この恩に報いようとでも思ってくれたのか,その後のレベダ氏は大いに活躍した。次々と受注に結び付け,ついには借金を全額返済したのだ。その結果,恐らく今ではフォルクスワーゲン社のミッションケースの半分は,宇部興産の機械で造られているはずだ。それぐらい,フォルクスワーゲン社は我々の機械を評価してくれたのだ。

 フォルクスワーゲン社へ納入した実績は,大きな影響があった。フォルクスワーゲン社が日本の宇部興産というメーカーから機械を購入したという情報を得た欧州の他の国の企業からも,たくさんの引き合いをもらい,実際に取引を開始することになったからだ。また,その後は中国市場や東南アジア市場にも効果が波及した。両市場ではたくさんのドイツ企業が技術指導を行っており,その先生が“お墨付き”を与えた宇部興産の機械なのだから,間違いがないと判断してくれたためだ。