「はい,すみません」

 午後の喫茶フロアは,利用する人も少なく閑散としている。田中と鈴木は,その片隅のテーブルに座った。
「何だよ,忙しいから短めにしてくれよな」。
「はい,すみません」。
田中は,鈴木に声をかけられたのが内心いやではなさそうだ。
「すみません,か。鈴木さんは,いつも謝っているな」。
「はい,すみません。あっ,また。すみません。癖になりました」。

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 鈴木は続けた。
「さっきのセンター長の話なんですけど,どういうことですか? ゲストエンジニアに費用って,うちの会社は払っていないんですか」。
「うん。ゼロじゃないけどな。うるさいサプライヤーとか開発委託品とか,つまり承認図面に関する費用は払っているよ。ただ知的財産権とか特許の扱いとかによっても違うけどな」。
「今回の話は田中さんが担当している躯体メーカーの件ですよね,サプライヤーから払ってくれって言われたんですか」。
「言われてないよ。でも実際には部品原価に上乗せしている管理費の中に含めて払っている。今回の件に限らず話はお金を払う,払わないの問題じゃない」。

「どういうことですか」。鈴木はけげんな顔をして田中に聞いた。
「この前鈴木さんが書いた設変でトラブルがあっただろう。何でだと思う」。
「それは…,私に能力がなかったからですよね」。
「それは表面的な話,能力なんて最初からある奴はいない。そんなもの設計してみて初めて分かることだ。設計したことがない奴なんかにものの造り方なんか分かるわけがない。造れないものを設計しちまうのも当たり前のことだ」。
鈴木はうなずいた。

「そんなことより,鈴木さんのような新人に設計をさせない仕組みに問題がある」。
「といいますと?」
「会社によって技術とか商品の戦略はさまざまだ。うちのルールはこう。商品全体や商品の機能に係わる開発,デザイン躯体の設計は何かの例外的事情がない限りうちの技術を使う。つまり特許や知財は社外に流出させない。しかしなぜか知らないがルール違反がまかり通っている。ゲストエンジニアとかいって部品メーカーに負担をかけて頼りにしている。『商品担当』だか何だか知らないけど,部品の設計もできないエンジニアがほとんどだ。人が足りないとか忙しいとかなんて理由にならない。だったらお金を払って技術を買えばいい。だから金を払えってお前のところの上に言ったんだ」。

「そうだったんですか。でも実際問題として,設計できる能力がある人も,時間がある人もいないですよ。どうすればいいんですか」。
「それじゃあお前んところの上が言っていることと同じだよ。金を払わないで技術を盗む,それが購買の仕事なんだとさ」。
鈴木はそれも一理あると思い,怒鳴られるのを覚悟して正直に聞いた。
「それも一理ありませんか」。

 意外にも田中は怒鳴らずに静かに答えた。
「鈴木さんよ。前に購買ってのはどういう仕事か言ったことがあったよな。『QCD(Quality,Cost,Delivery)の確保できる最適なサプライヤーの選定とサプライヤーとの関係構築。それから強いて挙げれば,単に安くするのではなく,最適コストの実現』。今の状況で最適なサプライヤーの選定ができるか? この状況でサプライヤーとの協働関係が作れると思うか?」
「…」
「例えば新しい優秀なサプライヤー候補が現れたとするよな。今は日本だけでなくて全世界のサプライヤーをサーチしている。当然のことながら今の契約書には『ゲストエンジニアを発注先サプライヤーは提供すること,それも無償で』なんて書いてない。契約書に書かれていない,やって当たり前と現場や設計が考えているサービスもほかにある。新しいサプライヤーに見積依頼をする。当然こういう諸経費がかかると思っていないから安い見積りが出てくる。これで最適なサプライヤーが選定できるか?『皆やっているから御社もやってください。それが当然です』って言えるか? そんなの20年前,日本が島国だった時に終わった話だぞ」。
「なるほど,言われてみればそうですね」。

「それだけじゃない。前に鈴木さんが勝手にサプライヤーの設計を呼んで打ち合わせしようとしただろう」。
「はい」鈴木は田中と知り合うきっかけになった件を思い出した。
「自分で設計ができない,それじゃあどうするかっていうと時間がないから,自分で勝手にサプライヤーを決め付けて購買に筋を通さない奴が出てくる。お前,設計フロアの接客コーナーに何でいつもあんなに人がいるか分かるか? サプライヤーとの打ち合わせだよ。それも購買に話が来るのはすべてが決まったあと。図面にはサプライヤーの名前が入っている。これで最適なサプライヤーとの関係構築なんてできるか?」
「すみません」。
鈴木と田中は顔を見合わせて苦笑した。

「設計の役割って何なんだろう?」

 少し間を置いて田中が話し始めた。
「鈴木さんよ,何か間違っていると思わないか。躯体設計なんてそんなに先端の技術じゃないし,言うなれば枯れた技術だ。だけどそういう問題じゃない。会社としての技術力って何なんだ,って俺はいつも考えている」。
「会社としての技術力…ですか」。
鈴木はそんなこと考えたこともなかった。

「田中さんは購買でそんなこと考えているんですか」。
「俺は新人のころ,ベテランの設計さんに鍛えてもらった。そのころの設計さんは購買なんて一段どころか二段も下に見ていた。会社を支えているのは自分だ,と思っている奴らばかりだったからな。でもあいつらは本当によく勉強していた。何を開発すれば本当に世の中の役に立つだろうか,っていつも自問自答していた。今のお前らの3倍は考えていたね。
 彼らの中には10年以上同じ部品の設計だけやっているなんて人も多かった。『商品担当』なんていうのは,エリートの中のエリートだけしかなれなかったもんだよ」。
鈴木は田中の一言一句を聞き洩らさないように注意を集中させていた。

「でもな。10年以上同じ部品の設計だけやっていても,いつも商品全体のことを考えている奴らばかりだった。全体最適とか最近よくいうだろ。そんな言葉自体必要なかったよ」。
「そうだったんですか」。
鈴木は今の彼の部署の状況を思い浮かべた。
「鈴木さんよ,設計の役割って何なんだろう?」
田中が続ける。
「設計って自分の思いとか,会社としてのメッセージを商品というものに込めて伝える役割じゃないのかね? それをやりたくてうちの会社に入ってくるんじゃないのか? だとしたら商品として成り立たせるのが設計の仕事だよな。部品の設計もできない奴に商品全体を語る資格があるのかね?」
「…」

 鈴木は何も言えなかった。彼自身,あまり深くも考えずに,大学時代に指導を受けた研究室の教授の紹介でこの会社に入社した,というのが正直なところだった。その前,大学受験の時に理系を選んだのも,実は英語が苦手だったという理由が大きかった。

 田中は,そんな鈴木の心の中を見透かしているかのように,言った。
「鈴木さん,いつか教えてくれよな。設計の役割って何なのか」。