私は現在も、ワシントンDCにあるアメリカ工学教育協会の雑誌に記事の連載を続けています。話題は、技術のことにとどまらず、業界や教育現場にも及びます。技術音痴の私にとって、これは決して楽な仕事ではありませんが、この依頼のために多くの大学を訪ね、工学部教授の方々に長年取材をさせていただきました。そのおかげで、少し知恵もついたのです。

 ここ数年、彼ら教授たちが共通して警鐘を鳴らしている問題があります。それが、工学部の沈下です。日本ではもちろん、工学部は花形でした。優秀な学生の多くが工学部を専攻したのです。中国や韓国では今でもそうです。中国では、エリート指導者のほとんどが法学部や政治学部ではなく、工学部の出身です。社会全体からみれば、このような風潮は大変好ましいものです。戦後復興期や発展途上国にまず必要になる重要な人材は、道路や都市インフラなどの整備に携わることができる建築、土木分野のエンジニアです。工業が勃興してくると、機械製品などを改良したり、量産ラインの効率を上げたりする技術者も熱望されるようになりますね。さらには、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスなどのようなIT系技術者。彼らのような天才が出現してなければ、今のような社会は到来していないわけですから。

 けれど、90年代あたりから様相が変わってきました。「今や優秀な学生は、ほどほどしか稼げない工学部を避け、マネーゲームを志向して経済学部を目指すんですよ。この傾向が続けば、国はどうなっちゃうのでしょうか」と教授たちが嘆き始めたのです。昨年までの世界的なバブル景気は、銀行や金融市場だけに打撃を与えたわけではありません。学生たちのキャリアまでが歪められてしまったのです。金融業界が多くの優秀な人材を吸い込んでしまうものだから、ほかに社会が必要としている分野の人材が枯れていってしまうのです。もちろん、これは日本だけの問題ではありません。アメリカもひどいもの。優秀な人材が医学や工学、芸術など、「リアル」な価値や資産を生む分野を避け、投資銀行などに入り、ほとんど理解不能なほど複雑な投資装置を作り出し、サブプライム問題の片棒を担いで世界に大迷惑をおかけしてしまったのです。

 それが、今回の大不況で大いに変わりつつあります。今春のニューヨーク・タイムス紙は、名門ビジネス・スクール卒の学生が、ウォール街ではない、他の業種を就職先として検討し始めたと報じています。「ウォール街には就職したくなかったから、ほっとした」と告白する学生もいたとか。お金持ちの家に育った名門アイビーリーグの卒業生なら誰でも、高給が得たくて投資銀行を目指すものだと思っていました。まぁそのような人も結構いたけど、本人はそうでもなくて、親や同級生からのプレッシャーがあるものだから不本意ながら収入の多い金融機関などに就職する人も少なからずいたようです。要するに、自分の夢ではなく、周囲の思惑によってキャリアが決められてしまったということでしょう。

 けれど、就職先がほぼ半減したともいわれる現在、名門大学の卒業生といえども、他の進路も探さざるを得ない状況にあります。こうして、学生の選択肢は一気に広がりました。音楽が大好きなある学生は、ジャズクラブを開くことを検討しているそうです。貧しい地域の子供たちに教育の機会を与えようと、NPOへの参加を考えている卒業生もいました。アメリカ国務省に就職を希望する人もいます。起業して、自分の夢を実現したいと話す女子学生もいます。「私の同級生も、今まで一度も考えたことなかったような選択肢まで検討しています。あいつがそんなに面白い人間だったなんて、びっくりですよ」とある学生は言っていました。