オイルショックで仕事が大きく減った宇部興産の機械部門は,隣国の韓国の鉄鋼メーカーポスコ社から,スキンパルスミルや石灰焼成炉などの仕事を受注した。いずれも,日本での製鉄関係の仕事で実績があったものだ。やはり,韓国は近い。山口県宇部市から韓国釜山市までの距離は,船で言えば,実に瀬戸内海を宇部市から岡山市に行く程度の近さである。

 このころから,ポスコ社との関係が少しずつできていった。オイルショック後,宇部興産はもともと炭鉱会社であった経験を生かし,高騰する石油から安価な石炭へと燃料の転換をいち早く図った。豪州産の石炭の輸入を開始し,自社用だけでなく,電力会社用にも大量に輸入するために,広い炭鉱跡地に広大な石炭ヤードを建設したのだ。

 この石炭ヤードや,セメント,化学,機械と多角化を続ける宇部興産に興味を持ったのが,ポスコ社の朴泰俊社長である。朴社長は視察のために宇部興産にしばしば来社され,工場見学をすると共に,宇部興産の中安閑一社長ともよく懇談されていた。機械をポスコ社に納めていることもあり,私も小郡駅(現新山口駅)までお迎えに行ったり,工場をご案内したりして,朴社長からよくお話を聞かせていただいた。

 朴社長は元韓国陸軍少将。朴正熙大統領からポスコ社の社長を任命された時に,計画では,年産100万tの小型の設備を欧米の技術で造ることになっていた。だが,朴社長は「これでは小さすぎてダメだ」と判断し,新日本製鉄の稲山嘉寛社長に援助を頼んだ。そして,稲山社長から快諾を得て,朴大統領の前で,時の首相と激論を交わした結果,大型設備に計画を変更したという。

 その大型設備が完成した後,朴社長から「藤野さん,見に来ないか」とのお誘いを受け,訪問した。その厚板工場に入った時は,本当にビックリした。なぜなら,ほんの2~3年前に新日本製鉄の大分製鉄所の完成式で見た,最新の厚板工場にそっくりだったからだ。思わず案内をしてくれたポスコ社の社員に「これはどうやって造ったのですか」と聞いた。すると,「大分製鉄所の建設班長が最新の図面を持ってここに来られ,これで造りなさいとおっしゃったのです」とのこと。なるほど,それで大分製鉄所の最新工場と同じなのかと私は納得した。しかし,本来ならその図面は企業秘密のはずだ。それを惜しげもなく援助するとは,稲山社長が考える日韓協力の援助とは,これほど心のこもったものであったかと感じ入った次第であった。今ではポスコ社は世界でも有数の粗鋼生産量を誇っているが,新日本製鉄と友好関係にある原点はここにあると思っている。

 また,光陽市に第2工場(ポスコ光陽製鉄所)を建設した時のことだ。鉄鉱石や石炭を輸入して陸揚げするために,数多くの15万tクラスの船が接岸できるように大きく深い港を造る必要があると朴社長は語った。しかし,いくらポスコ社の規模とはいえ,さすがにその港は大きすぎると感じた私は,「どうしてそんなに大きな港にするのですか」と率直に尋ねた。すると,朴社長はこう答えた。「藤野さん,中国の海岸線は長いけれども,沿岸に深い港はないでしょう? 中国が多くの製鉄所を造る時,世界中の鉄鉱石や石炭を15万tの船で光陽まで持って来て,1万~3万tの小さな船で運んでいくのです」。朴社長がこう考えていたのは,韓国が中国と国交を結ぶ何年も前のことだ。そのとき既に,将来を見据えた経営をしていたのである。現在のポスコ社の発展を見ると,経営には長期展望が大切だと思い知らされる。