技のココロ

「和紙」 第1話 『生きた紙が滅びるとき』

  • 文:今井 拓司=Tech-On!,仲森 智博=編集委員 撮影:藤森 武
  • 2009/05/28 15:00

Flash版はこちらから:Flash Playerが必要です


 「和紙」が絶滅の危機に瀕している。

 全国手漉き和紙連合会によれば、現在日本で和紙を漉いている家はわずか295戸。20世紀の初め、1901年には6万8562戸だったので、100年あまりで230分の1に減った計算になる。そして今なお、減少のペースは加速を続けているようだ。2001年には392戸あったから、この8年で100軒近く、割合にして全体の1/4が消えてしまった。

 総生産額もずいぶん小さくなってしまった。連合会の会長を務める成子哲郎によれば「具体的な数値は公表していないが、洋紙も含めた国内生産額のうち、0.1%とか0.3%とか、それくらいの規模」らしい。経済産業省の集計によれば、紙の国内販売総額は2007年に2兆1533億円。ここから類推すれば、高々数十億円しかない。産業とは呼びづらく、小ぶりな企業一つ分くらいの規模だ。

 しかも、その数字すら、純然たる「和紙」だけのものとは言いにくい。そもそも「和紙」の定義があいまいであることに起因する。鳥取県で和紙を製造する大因州製紙協業組合の塩宏介はこう説明する。「和紙という言葉は比較的最近できたものなんです。明治時代に海外から新種の紙が入ってきて、それを洋紙と呼んだ。それに対して、昔から日本にあった紙を和紙と呼ぶようになったんです」。洋紙の特徴は、木材から抽出したパルプを原料に、機械を使って大量につくる点にある。これに対する、古来製法の紙を和紙と呼ぶならば、明治以前と同じ材料を使い、手で漉いた紙こそが本物の和紙、ということになるのだろう。

 ところが、あまたある和紙の中でも、古来の材料、製法をそのまま踏襲してつくられる紙は皆無に近いという。手漉き和紙連合会が把握している生産規模は、自らの団体名にも関わらず、「手漉き」でつくっていないものを含む。機械で紙を漉いている場合も、その速度が一定値以下の場合は手漉きとみなしているらしい。紙を漉く場面に限らず、各工程で機械を導入する、さらには従来材料に木材パルプを混ぜるということが当たり前になっているのだ。

 もっとも、洋紙の洗礼を受けた日本の紙が、その良さを取り入れて変わっていくのは自然な成り行きといえるだろう。古来製法にこだわらなくとも、新製法で同等の紙ができるのならば別に問題はない。

 けれど、そうはうまくいかないらしい。「同じような紙」はできても「同等の紙」はできない。和紙づくりに携わる人たちは、そう口を揃える。パルプを混ぜ機械で漉いた和紙をつくるのは、時代の要請を受けたから。しかし、その結果として生まれるのは、昔からある日本の紙とは似て非なるもの。和紙ならではの品質や風合いは、結局は古来の材料と製法によらなければ生み出せないというのだ。

 作り手だけでなく使い手の意見も聞こうと、鈴栄経師(きょうじ)の鈴木源吾を訪ねた。経師は表具師とも呼ばれ、襖貼りや書画の軸装などを手掛ける、いわば「紙を扱うプロ」である。鈴木はその第一人者。最近では大徳寺聚光院別院の襖絵を手掛け、話題を呼んだ。日本画家の千住博が5年の歳月をかけ完成させた絵を襖に仕上げたのが彼である。

楮(こうぞ)の木からつくった和紙を濡らして裂くと、長い繊維が顔をのぞかせる
楮(こうぞ)の木からつくった和紙を濡らして裂くと、長い繊維が顔をのぞかせる。(写真:宮田昌彦)

 その鈴木が言う。「機械漉きか手漉きかなんて、すぐに分かりますよ。紙が機械漉きだったら、大抵パルプを使ってるね。それもすぐわかる。使い手からいえば、やっぱり自然の材料を使って手漉きしたものが一番。手漉きした紙は、そのままでも、黒く塗っても表情が柔らかいんだよね」

 正しくつくった和紙は、何よりも持ちが違う。

 「出来上がったものを見て『いい仕事ですね』なんて言われても、何言ってるんだって話ですよ。僕らの仕事は10年後、100年後なんだよね。千住さんと聚光院でやったときは、500年以上持たせようって話してたんだよ。昔から、襖絵は8枚も10枚も下貼りをしている。画家に描いてもらった絵を保護するためですよ。湿度が高い夏は、紙が水分を吸ってくれる。冬になって乾燥すると、逆に吐き出す。だから、100年でも200年でも持つんでね。それをやるには手漉きの和紙じゃなければダメ。下貼りだから、見えないからといって紙質を落とすなんてことは一切できないんでね」

栽培が困難な植物、雁皮(がんぴ)を原料に漉いた紙。
栽培が困難な植物、雁皮(がんぴ)を原料に漉いた紙。
三椏(みつまた)を原料にしてつくった紙。
三椏(みつまた)を原料にしてつくった紙。

 機械で漉いた和紙とちゃんとした和紙。それをどう見分けるのだろうか。その秘訣を聞いたら、ぴしゃりと叱られた。

 「この部分が違いますとか、そんな簡単な話じゃないんだよ。何年、何十年と紙とつきあっていると、肌やカン、体全部で読みとっていくようになる。例えばここにある紙は、手漉き。よく漉けた紙だけど、漉いてまだ間もないんじゃないかな。振るとボソボソと低い音がするから。でもこれを1年寝かすとまるで違ってくる。紙がしまって、音がシャラシャラいうようになる。紙は生きているんでね」

 長い経験によってのみ磨かれる、極微の差異をかぎ分ける能力を感性と呼ぶならば、ここにあるのがそれである。かつて使い手の感性は、何百何千種とある紙の違いを読みとり、あらゆる分野にその使途を求めてきた。書画にとどまらず、住居や日用品、遊びや日々の慣習の領域にまでそれを浸透させていったのだ。それに応えるように、紙の作り手も鍛え抜いた五感で材料に向き合ってきた。大昔に確立した製紙法の基本に則りつつ、素材の特徴や使い手の要求を汲み、紙という白いのっぺりした表面に無数の表情を与えてきたのである。

 国の歴史に匹敵する歳月、素材と作り手と使い手が続けた無言の対話は、細やかな情感を織り込んだ、無上の紙を生んだ。その担い手は、貴族や武士といった特権階級にとどまらない。千変万化の紙を漉いたのは各地の農民であり、八面六臂の使い道を享受したのは市井の庶民だった。今、和紙とともに滅びようとしているのは、時代を超えてすべての人に寄り添ってきた、緻密で豊潤な日本の感性なのである。

 そもそも日本に紙の作り方が伝わったのは、今から1400年前、西暦610年といわれる。『日本書紀』によれば、この年渡来した高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙の製法を伝えたという。これより前から、国内で紙漉きが始まっていたとする意見も多い。

 伝来した手法の源流は中国にある。曇徴の来朝から500年も前の西暦105年、後漢の官吏・蔡倫(さいりん)が紙を発明したと『後漢書』にある。ただし中国では、さらに250年ほども遡った紀元前2世紀の紙が見つかっている。現在では、蔡倫は紙の発明者というより、製法を確立し、世に広めた人物とされる。蔡倫がつくった紙は蔡侯紙と呼ばれ、それまで使われていた絹布や木簡の代わりに、文字を書き記す素材になった。

世界最古の印刷物の一つとされる百万塔陀羅尼経。
世界最古の印刷物の一つとされる百万塔陀羅尼経。

 日本で当初漉かれた紙も、蔡侯紙と同様に書写に使われた。写経や行政用の記録といった用途である。正倉院に残される日本製の最古の紙には、西暦702年当時の戸籍が記されている。770年に完成した『百万塔陀羅尼(だらに)経』は、現存する世界最古の印刷物の一つとされる。世の平静を願い、陀羅尼と呼ばれる呪文を印刷して百万の小塔に収めたものである。

 平安時代になると、紙は文字だけでなく情緒を載せる媒体に発展した。貴族社会の中で、紙を染め、継ぎ、文様を擦り込むといった、きらびやかな加工技術が花開く。女性は和歌を詠む薄様の紙を懐に忍ばせ、『源氏物語』は色鮮やかな絵巻物に仕立てられた。平安文化を彩った数々の技法は、当時の写本『西本願寺本三十六人歌集』などに、その美をとどめている。

 鎌倉から室町へ時代が移るにつれて、紙は住居に欠かせないものになっていく。木でできた蔀戸(しとみど)の代わりに、細い木の桟に紙を貼った明かり障子が、書院造りの家屋とともに広まった。外気を遮る強さと、光を通す薄さを両立させるために、和紙は他に類がない強靱さを身につけていく。その強さは紙の用途を、情報を載せる基材の範囲を超えて、布や木材の領域を浸食するまで拡大した。

桂離宮中書院の障子。
桂離宮中書院の障子。

 江戸時代にもなると、紙は日常生活の隅々まで行き渡る。漆を塗った紙は器や煙草入れに変わり、油を引いた紙で傘を張り、揉んだ紙を衣類に仕立てて紙衣(かみこ)と呼んだ。元結紙で髷を結い、ちり紙で鼻をかんだ。正月にはおみくじでその年を占い、暑い夏を扇子でやり過ごした。大人は熨斗紙や水引で礼儀を示し、子供は折り紙やかるた、凧で遊んだ。

 このころ日本は、世界でも最先端を行く紙の先進国だったらしい。17世紀初頭、伊達政宗が支倉(はせくら)常長を団長とする親善使節団を欧州へ派遣した際は、一行がフランスやイタリアで使い捨てた鼻紙を現地人が貴重品として争って拾い集めたという。当時、日本と接点があったオランダでは、和紙を好んだレンブラントが何度も銅版画に使っている。

 多彩な用途を支えたのは、全国で生産された様々な和紙だった。京都の女性に「やわやわ」と呼ばれて愛された極薄の吉野紙。公文書用として名高い越前の奉書紙。障子紙の最高峰は本美濃紙で、襖には名塩の間似合紙。用途や産地に応じた和紙の呼び名は枚挙にいとまが無く、どの地方にも大抵、名のある紙がある。

和紙を張った傘。
和紙を張った傘。

 こうして和紙が独特な生態系を形作るまでには、長い歳月が必要だった。ところがその瓦解に要した時間はごく短い。契機となったのは、明治維新以降の日本社会の変化である。安価な洋紙が和紙を圧倒し、西洋風の生活慣習が日本の紙の居場所を狭めていった。

 その洋紙も、起源をたどれば中国に行き着く。けれど、東西に分かれて伝播した紙がたどった進化の方向性は、日本と西欧で全く違ったものだった。

 西暦751年、中央アジアのタラス河畔でイスラム帝国が唐との戦いに勝った。このときの捕虜に紙職人がいたことが、製紙法が西に伝わった第一歩とされる。その直後にサマルカンドに製紙所ができた。欧州は、イスラム圏を通じて紙の存在を知る。当初は輸入に頼っていたが、12世紀ごろから西欧の各地に製紙所ができていく。

東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)では、修行僧が紙衣(かみこ)を身につける。
東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)では、修行僧が紙衣(かみこ)を身につける。修二会は、仏教寺院で執り行う法会の一つ。東大寺二月堂のそれは「お水取り」と呼ばれ、千年以上前から続くとされる。

 欧州での紙の生産に多大な影響を与えたのが、1450年ごろにグーテンベルクが実用化した活版印刷である。これにより、書籍に対する爆発的な需要が生まれた。日本人が紙の用途を生活の随所に広げている間、欧州は印刷に向く紙の量産に目標を定め、その方法の模索に注力した。その成果として、17世紀のオランダで紙の材料の繊維をほぐし切断する「ホランダービーター」が発明される。1800年前後には、自動的に紙を漉く抄紙機がイギリスやフランスで稼働を始めた。

 欧州でずっと問題だったのは、紙をつくる原料の慢性的な不足だった。鼻をかんだ紙まで奪い合った一因は、和紙の品質もさることながら、欧州では使い捨てにするほど紙を量産できなかったという事情による。長い間洋紙の材料は、使い古した衣服などのぼろ切れで、確保できる量が自ずと限られていたのだ。江戸時代が終わる19世紀半ばになって、この問題の決定的な解決策が誕生する。木材からパルプをつくる手法が誕生したのである。これによって原料不足は一挙に解消し、和紙と比べて圧倒的に安く紙をつくるシステムが確立した。

白州正子が所蔵していた楮の紙でつくった帯。
白州正子が所蔵していた楮の紙でつくった帯。
18世紀前半に長崎の森仁左右衛門(もりにざえもん)がつくった望遠鏡。
18世紀前半に長崎の森仁左右衛門(もりにざえもん)がつくった望遠鏡。和紙を張り漆を塗ったものを、内筒に使っている。外筒は革張り。
桂離宮松琴亭の襖。
桂離宮松琴亭の襖。

 日本で最初に機械漉きの洋紙が製造されたのは、木材パルプの発明からほどない1874年。当初は和紙と比べて品質も劣り、人気もなかったようだ。しかし、1903年に小学校の国定教科書で洋紙を採用したころから徐々に生産が伸びていく。和紙の側は機械化や材料の工夫で対抗したが、所詮は相手の土俵の上であり、勝ち目は薄かった。和紙の作り手がたどった道のりは、冒頭で述べた通りである。

 和紙の良さは、簡単には破れない強さや、長期にわたって傷まない保存性の良さ、独特の肌合いなどにある。それを形作ってきたのが、植物の皮から人手で採取した繊維を、独特な手漉きの技法で加工する製造方法だった。樹皮が含む繊維は長く、手漉きによってよく絡むため、強靱な紙ができる。1000年も持つとされるのは、製造中に繊維を傷めにくく、添加物が少ないからである。全国の紙漉きは、細かい素材の特性を引き出し、漉き方の工夫を重ねることで、厚さや風合いの異なる、さまざまな紙を生み出してきたわけだ。

 洋紙の作り方は、和紙とは対照的である。全国手漉き和紙連合会会長の成子哲郎は、「和紙は素材の良さを引き出しているだけ。洋紙は逆に、素材の特徴を消すような作り方をしている」と表現する。洋紙の原料であるパルプは、機械や化学薬品によって木材から抽出する。歩留まりは高いが繊維は傷む。加えて、紙の特性を改善するために加える数々の薬品が、後々紙を傷める原因になる。だから洋紙は1000年も持たない。しかも、和紙と比べればはるかに破れやすい。パルプが含む繊維が短く、機械で漉くと、そこまで繊維が絡まりあわないからである。

紙胎文殊菩薩立像(したいもんじゅぼさつりつぞう)。紙を重ねてつくった鎌倉時代の仏像。
紙胎文殊菩薩立像(したいもんじゅぼさつりつぞう)。紙を重ねてつくった鎌倉時代の仏像。
紙胎文殊菩薩立像(したいもんじゅぼさつりつぞう)。紙を重ねてつくった鎌倉時代の仏像。

 その代わり、洋紙は極めて安価だ。機械や薬品による表面処理で、光沢度や平滑性は高く、印刷も容易である。添加物や処理方法を変えれば、色々な紙を設計することも可能だ。同様の処理を施していない昔ながらの和紙は、概して表面が粗く、印刷機にかけると紙の一部が剥離する「紙剥け」が生じやすい。インクの乗りも悪い。それは、柔らかな風合いと裏腹なのである。

 文化が、土地の風土や歴史から生まれた独自の価値だとすると、和紙もまた文化である。一方で、時代に即した価値を風俗と呼べば、和紙はそこからはみ出てしまったことになる。現代の印刷用紙に必要なのは、1000年持つ耐久性や暖かみのある肌よりも、安さや平滑な表面。ガラス戸の普及で内装の一部と化した障子紙に、薄さと強さの両立は求められない。

紙胎漆塗彩絵華籠(したいうるしぬりさいえけこ)。
紙胎漆塗彩絵華籠(したいうるしぬりさいえけこ)。木型を用いて和紙を成形し、漆を塗布して固めたもの。鎌倉時代の作。華籠は、法要に使う花を入れる仏具。

 社会の仕組みが変われば、かつての文化が廃れるのは世の常である。もちろん、鈴栄経師の手によるような「ハイエンド」の日本文化は残り続けるだろう。そこには和紙が生きる道が確かにある。しかし、普通の暮らしの中に溶け込んでいた日本の技に接する機会は、確実に減っていく。しかもその敷居は、工業製品の価格低下と比例するかたちでどんどん高くなっている。和紙そのものや和紙を使った製品は、今ではちょっとした贅沢品だが、それはいずれ文化財級の貴重品になってしまうのかもしれない。大因州製紙の塩宏介は「現在和紙が使われている用途のほとんどは、洋紙でも足りてしまう。本当に和紙でなければならないのは、古文書の修復くらいでは」と嘆く。

 そんな逆境下にあって、四国の山間にほぼ昔そのままの方法で紙をつくり続ける一家があるという。和紙の今を知り将来を占おうと、そこを訪ねた。(文中敬称略)