和紙を張った傘。
和紙を張った傘。

 こうして和紙が独特な生態系を形作るまでには、長い歳月が必要だった。ところがその瓦解に要した時間はごく短い。契機となったのは、明治維新以降の日本社会の変化である。安価な洋紙が和紙を圧倒し、西洋風の生活慣習が日本の紙の居場所を狭めていった。

 その洋紙も、起源をたどれば中国に行き着く。けれど、東西に分かれて伝播した紙がたどった進化の方向性は、日本と西欧で全く違ったものだった。

 西暦751年、中央アジアのタラス河畔でイスラム帝国が唐との戦いに勝った。このときの捕虜に紙職人がいたことが、製紙法が西に伝わった第一歩とされる。その直後にサマルカンドに製紙所ができた。欧州は、イスラム圏を通じて紙の存在を知る。当初は輸入に頼っていたが、12世紀ごろから西欧の各地に製紙所ができていく。

東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)では、修行僧が紙衣(かみこ)を身につける。
東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)では、修行僧が紙衣(かみこ)を身につける。修二会は、仏教寺院で執り行う法会の一つ。東大寺二月堂のそれは「お水取り」と呼ばれ、千年以上前から続くとされる。

 欧州での紙の生産に多大な影響を与えたのが、1450年ごろにグーテンベルクが実用化した活版印刷である。これにより、書籍に対する爆発的な需要が生まれた。日本人が紙の用途を生活の随所に広げている間、欧州は印刷に向く紙の量産に目標を定め、その方法の模索に注力した。その成果として、17世紀のオランダで紙の材料の繊維をほぐし切断する「ホランダービーター」が発明される。1800年前後には、自動的に紙を漉く抄紙機がイギリスやフランスで稼働を始めた。

 欧州でずっと問題だったのは、紙をつくる原料の慢性的な不足だった。鼻をかんだ紙まで奪い合った一因は、和紙の品質もさることながら、欧州では使い捨てにするほど紙を量産できなかったという事情による。長い間洋紙の材料は、使い古した衣服などのぼろ切れで、確保できる量が自ずと限られていたのだ。江戸時代が終わる19世紀半ばになって、この問題の決定的な解決策が誕生する。木材からパルプをつくる手法が誕生したのである。これによって原料不足は一挙に解消し、和紙と比べて圧倒的に安く紙をつくるシステムが確立した。