世界最古の印刷物の一つとされる百万塔陀羅尼経。
世界最古の印刷物の一つとされる百万塔陀羅尼経。

 日本で当初漉かれた紙も、蔡侯紙と同様に書写に使われた。写経や行政用の記録といった用途である。正倉院に残される日本製の最古の紙には、西暦702年当時の戸籍が記されている。770年に完成した『百万塔陀羅尼(だらに)経』は、現存する世界最古の印刷物の一つとされる。世の平静を願い、陀羅尼と呼ばれる呪文を印刷して百万の小塔に収めたものである。

 平安時代になると、紙は文字だけでなく情緒を載せる媒体に発展した。貴族社会の中で、紙を染め、継ぎ、文様を擦り込むといった、きらびやかな加工技術が花開く。女性は和歌を詠む薄様の紙を懐に忍ばせ、『源氏物語』は色鮮やかな絵巻物に仕立てられた。平安文化を彩った数々の技法は、当時の写本『西本願寺本三十六人歌集』などに、その美をとどめている。

 鎌倉から室町へ時代が移るにつれて、紙は住居に欠かせないものになっていく。木でできた蔀戸(しとみど)の代わりに、細い木の桟に紙を貼った明かり障子が、書院造りの家屋とともに広まった。外気を遮る強さと、光を通す薄さを両立させるために、和紙は他に類がない強靱さを身につけていく。その強さは紙の用途を、情報を載せる基材の範囲を超えて、布や木材の領域を浸食するまで拡大した。

桂離宮中書院の障子。
桂離宮中書院の障子。

 江戸時代にもなると、紙は日常生活の隅々まで行き渡る。漆を塗った紙は器や煙草入れに変わり、油を引いた紙で傘を張り、揉んだ紙を衣類に仕立てて紙衣(かみこ)と呼んだ。元結紙で髷を結い、ちり紙で鼻をかんだ。正月にはおみくじでその年を占い、暑い夏を扇子でやり過ごした。大人は熨斗紙や水引で礼儀を示し、子供は折り紙やかるた、凧で遊んだ。

 このころ日本は、世界でも最先端を行く紙の先進国だったらしい。17世紀初頭、伊達政宗が支倉(はせくら)常長を団長とする親善使節団を欧州へ派遣した際は、一行がフランスやイタリアで使い捨てた鼻紙を現地人が貴重品として争って拾い集めたという。当時、日本と接点があったオランダでは、和紙を好んだレンブラントが何度も銅版画に使っている。

 多彩な用途を支えたのは、全国で生産された様々な和紙だった。京都の女性に「やわやわ」と呼ばれて愛された極薄の吉野紙。公文書用として名高い越前の奉書紙。障子紙の最高峰は本美濃紙で、襖には名塩の間似合紙。用途や産地に応じた和紙の呼び名は枚挙にいとまが無く、どの地方にも大抵、名のある紙がある。