栽培が困難な植物、雁皮(がんぴ)を原料に漉いた紙。
栽培が困難な植物、雁皮(がんぴ)を原料に漉いた紙。
三椏(みつまた)を原料にしてつくった紙。
三椏(みつまた)を原料にしてつくった紙。

 機械で漉いた和紙とちゃんとした和紙。それをどう見分けるのだろうか。その秘訣を聞いたら、ぴしゃりと叱られた。

 「この部分が違いますとか、そんな簡単な話じゃないんだよ。何年、何十年と紙とつきあっていると、肌やカン、体全部で読みとっていくようになる。例えばここにある紙は、手漉き。よく漉けた紙だけど、漉いてまだ間もないんじゃないかな。振るとボソボソと低い音がするから。でもこれを1年寝かすとまるで違ってくる。紙がしまって、音がシャラシャラいうようになる。紙は生きているんでね」

 長い経験によってのみ磨かれる、極微の差異をかぎ分ける能力を感性と呼ぶならば、ここにあるのがそれである。かつて使い手の感性は、何百何千種とある紙の違いを読みとり、あらゆる分野にその使途を求めてきた。書画にとどまらず、住居や日用品、遊びや日々の慣習の領域にまでそれを浸透させていったのだ。それに応えるように、紙の作り手も鍛え抜いた五感で材料に向き合ってきた。大昔に確立した製紙法の基本に則りつつ、素材の特徴や使い手の要求を汲み、紙という白いのっぺりした表面に無数の表情を与えてきたのである。

 国の歴史に匹敵する歳月、素材と作り手と使い手が続けた無言の対話は、細やかな情感を織り込んだ、無上の紙を生んだ。その担い手は、貴族や武士といった特権階級にとどまらない。千変万化の紙を漉いたのは各地の農民であり、八面六臂の使い道を享受したのは市井の庶民だった。今、和紙とともに滅びようとしているのは、時代を超えてすべての人に寄り添ってきた、緻密で豊潤な日本の感性なのである。

 そもそも日本に紙の作り方が伝わったのは、今から1400年前、西暦610年といわれる。『日本書紀』によれば、この年渡来した高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙の製法を伝えたという。これより前から、国内で紙漉きが始まっていたとする意見も多い。

 伝来した手法の源流は中国にある。曇徴の来朝から500年も前の西暦105年、後漢の官吏・蔡倫(さいりん)が紙を発明したと『後漢書』にある。ただし中国では、さらに250年ほども遡った紀元前2世紀の紙が見つかっている。現在では、蔡倫は紙の発明者というより、製法を確立し、世に広めた人物とされる。蔡倫がつくった紙は蔡侯紙と呼ばれ、それまで使われていた絹布や木簡の代わりに、文字を書き記す素材になった。