1978年に米フォード社から我々宇部興産が受注した9台の2500tのダイカストマシンは,当時フォード社が「世界最大のダイカスト工場」と自慢していたアラバマ州のシェフィールド工場に納入することになった。場所は,あのフランクリン・ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策の一環で設立されたテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority;TVA)の近く。TVAのダムの水で発電する安価な電力を使ってアルミニウム合金を精錬するレイノルズメタル社の工場の隣にあった。この地の利を生かし,シェフィールド工場はアルミ溶湯をレイノルズメタル社から直接供給してもらう熱効率に優れる工場のはず,だった。

 実際に我々がシェフィールド工場の見学に行くと,確かにフォード社が世界最大と豪語するだけあって壮大な工場だった。ところが,溶解炉の前を見ると鋳造不良のスクラップの山がある。聞くと,この工場からデトロイトにある工場に送り出したものの,切削の段階で欠陥が見つかって返却されたものだという。これではせっかく隣の工場から溶湯を供給してもらっても,あまり意味がないと感じた。不良品を造り,それにわざわざ往復の輸送費を掛けた上で自分たちの工場に戻して積み上げているのだ。そんなことは,鋳造後に品質管理をきちんと行えば防げるし,そもそも鋳造する段階で良品率を高めればスクラップの山を築くほどの不良品は出ないはずである。我々はこのときに「フォード社の技術力は落ちているのではないか?」と疑問に思った。

 その疑問がさらに濃厚となる出来事がすぐに起きた。ダイカストマシンが完成したため,試鋳を行おうとミッションケースの金型をフォード社から山口県宇部市にある宇部興産の工場に取り寄せたときのことだ。試鋳の日,我々は菱備製作所(現リョービ)の浦上憲治専務(当時)に工場まで来てもらった。我々は機械メーカーであるため,鋳造メーカーのアドバイスが必要になるかもしれないと考えたからだ。ところが,浦上専務はフォード社から送られてきた金型を見るなり,こう言った。「これではいくら機械が良くても,製品なんてできませんよ」。

 果たして,その通りだった。シェフィールド工場に機械を納入後,我々が開発したダイカストマシンには問題がないのだが,フォード社が用意した金型のせいで,なかなか良品のミッションケースができない。これではせっかく良い機械を納入しても,品物にはならない。仕方がなく,急場をしのぐために金型を菱備製作所に造ってもらい,その上で同社の指導員にシェフィールド工場に出向いてもらった。こうして鋳造してもらうと,一発でうまくいった。たまりかねたフォード社は,菱備製作所に「追加の金型を製作してくれ」と頼んだ。だが,菱備製作所は「我々は鋳造メーカーであって,金型メーカーではない」と言って頑として受け付けなかった。要は「金型の注文ではなく,ダイカストの仕事をうちにください」というのが,菱備製作所の本音だった。

 その後,フォード社はシェフィールド工場を閉鎖した。これはフォード社に問題があったことはもちろんだが,UAW(全米自動車労働組合)の影響も決して小さくなかったと思う。UAWはコスト競争力など論理的な考えを無視し,ただ自分たちの利益ばかりを重んじて「バイ・アメリカン(Buy American)」を声高に叫び,日本から輸入した機械の運転や補修には協力しようとしなかった。その結果,現場は数多くのトラブルに見舞われ,一向に効率化が進まなくなった。業を煮やしたフォード社はシェフィールド工場を閉鎖し,そこで造っていた部品の生産を菱備製作所と,当時系列化したばかりのマツダに委託することを決定したのである。

 これが,菱備製作所のダイカスト工場が米国に進出したきっかけだ。現在,フォード社のミッションケースといった大型部品の大多数は,菱備製作所の米国工場で生産されている。せっかく宇部興産から納入した2500tのダイカストマシンも,稼働しなくなってしまった。それはともかく,この菱備製作所の一件は,地道な技術を積み上げていくことで,その分野で世界を制覇できるという好例だ。