確かに、神様への奉仕に代価という概念はないのかもしれない。けれど実際には、サービスと呼ばれるもののほとんどはビジネスに付随している。それでも無償ということは、それは「あったらもうけもの」程度のオマケで、競合商品との差異化程度につけられる付加価値の低いものでしかない、ということか。語源的にぴったりの言葉と言えば、やはりサーバント(召使い)であろう。

 先日、タクシーに乗った時のことである。その日は雨。移動のために道路脇で手を挙げてタクシーを止めたのだが、いつもは「パカン」と自動で開くドアが開かない。その代わりに運転席の扉が開き、シートベルトを外しながらドライバーが出てきた。彼は少し大きめな傘を差しながら私の方に駆け寄ると、サッと扉を手で開けてくれ、こう言って私を席に促すのである。「大変お待たせいたしました…」

 まさにその通りである。ずいぶん待たせされた。実際には何秒でもなかったのかもしれないが、ずいぶん待たされた気分になったのは事実である。雨だから早く乗りたい。車は目の前に止まっている。でもなかなか乗れない。そのいらいらが時間を長く感じさせてしまうのだろう。そして、降りる時も同に「サービス」を受けた。ドライバーはお願いした目的地に車をつけると、まず後方をバックミラーで安全を確認し、自分が先に出ようとするのである。何台か後方の車が通り過ぎるのを待ち、運転席側のドアから自分が先に出て、乗客用の扉の前まで移動し、傘を立てた状態で扉を開けてくれるのである。実に丁寧なサービスではあるけれど。

 それだけでなく最近のタクシーでは、車内で暇つぶしにカラオケができたり、おしぼりがあったり、つい最近までビール、さらにはお小遣いがなぜか貰えるタクシーまであったらしい。いろいろな楽しみ方があることはわかるが、タクシーという商品の評価ポイントは、あくまで「迅速で安全」であること。それが基本だと思う。ビールやお小遣いを渡す余裕があるのであれば、その分料金を割り引いてくれた方がいくらかありがたい。まあ、領収書でタクシーに乗るお客さんにとっては、「キックバック」は何よりうれしいサービスなのかもしれないが。

 タクシーだけではない。ペコペコと頭を下げ、顧客に媚びへつらうスタッフをずらりと揃えた店が「サービスがいい店」の例として挙げられたりすることもある。しかし、本当にそうなのだろうか。

 私はこのようなサービスを「奴隷的なサービス」と呼び、あまり評価しないようにしている。ビジネスとしてのサービスだと思えないからである。このようなお店では、顧客とスタッフの関係は、常にお客様が上位にあって、いわば主人と使用人のような関係性が成立してしまう。そして、こうした状況に置かれると人は思考をやめてしまいがちだ。使用人的な存在であるスタッフは、ただひたすら「ご主人様の言う通り」に動いていればよい、ということになりかねない。スタッフ自身の人間性や想い、願い、価値観などはまったく介入できなくなるのである。