確かに、すべてを高水準でこなせる人もいる。けれどもそれをすべての人に求めるのは酷な話で、職人さんたちが一芸を磨くことに専心できるからこそ製品の完成度は維持されてきたということか。そうだとすれば、現在進行している「中抜きによって作家が多くのものを引き受けざるを得なくなる」という現象は、企画力の低下だけでなく、さらなる技術の低下、製品完成度の低下を引き起こすことになるだろう。

だから失っても気付かない

 そんな話をあるベンチャー企業の経営者としていたら、「産業界も同じ問題に直面しているのでは」などとおっしゃる。

 問屋を抜かすことのメリットは分かっている。けれども、その結果として失うものの重要さに気付いていない。「ことあるごとに、企画立案とかアートディレクションといった部分は、日本メーカーの弱点として取り上げられる。けど、ちっともよくなったと思えない。それほど不得手なのかと最初は考えていたんだけど、どうも違うんじゃないかと思う。本気でそれを強化しようとはしていないんだよ。つまり、それほど大切なものだと思っていないわけ。軽視しているから、それを失いつつあることに鈍感になるし、気付いていても『技術者が片手間にやればいいんじゃない』くらいに思ってしまうのよ」。

 マーケティング力に裏打ちされた企画力、ディレクション力の軽視こそが日本の個癖と彼はいう。伝統工芸品に関していえば、ずっと以前にピークを迎えてしまったためか、過去の名作を模倣することに終始している作家さんが現代では多い。そのことが、企画・デザイン力軽視の遠因になっているとの見方がある。一方で、日本の産業界にはキャッチアップモデルによって成功してきた体験がある。つまり、過去の名作ならぬ先行メーカーの商品を模倣することに終始してきた時代があった。その習い性が成功体験と結びついて一つの個癖となった、というわけだ。

 その推測が正しいとすれば、職人の世界で起きていることはそのままメーカーでも起こり得る。企画やマーケティングなどの専門部署は業績が悪化でもしようものなら真っ先に「経費削減」の名目で縮小されてしまい、その機能の多くは技術者に負わされ、そのことが回りまわって技術力の低下を招く。結局は、副業で卓越したコンセプトがそうそう生み出せるわけもなく、それどころかコンセプトを具現化するための技術力さえ失うということか。おそろしい話である。