よく専門家の方が指摘するのは、造形力や意匠力の低下である。先日も知り合いの美術商にある漆芸作品を見せていただいた。それはあらゆる技法を駆使して製作された蒔絵の作品で、それだけで圧倒される。「すごい」と思う。でも、作品としての魅力が感じられない。技術があるのは分かるけど、器形はユルいしそもそも図柄が何とも野暮ったい。「こういうのを技のムダ使いっていうんだよね」と、その美術商はおっしゃる。

 こうした状況に危機感を抱いてか、「作家さんからのコンタクトが増えた」という話を美術商の方からよく聞く。「私、どんなものを作ったらいいんでしょう」と聞かれるのだという。「でも、うかつに答えられないんだよね。適当なことを言って『その通りに作ったから買ってくれ』とか言って持ち込まれても困るし。そもそも、美術商にはバイヤーとして商品を選ぶ機能はあっても、製作側にまで踏み込んで行ってプロデュースする機能はないんです」。

そのせいで技術も低下する

 歴史を振り返ってみれば、優れた美術工芸品は、高い技能を誇る職人と卓越した美意識をもつプロデューサとの共同作業によって生み出されてきた。後者の役割を果たしてきたのは、あるときは千利休のような文化人であり、小堀遠州や松平不昧のような大名であり、近世では益田鈍翁のような財界人である。そして、機関として広い分野でその役割を果たしてきたのが問屋ということになるのかもしれない。けれども、その問屋は弱体化し、あるいはスルーされ、後者の役割の大部分は作者に負わされることになった。

 そのことによって活動の幅を広げ、成果を挙げておられる作家さんたちもいる。前出の染色作家さんなどもそうだろう。販売促進や営業活動を含むマーケティング、商品企画、ブランド管理から実際の製作、原材料の調達、さらには工房経営まですべて自身で手掛けることで、いわゆる「頼まれ仕事」とは一味違う、素晴らしい作品を生み出しておられる。

 けれども、誰でもそのすべてを器用にこなせるわけではない。折に触れ専門家の方々が嘆かれることは「技術の低下」である。陶磁器、漆芸、指物などあらゆる伝統工芸の分野で技が衰え、先人たちが残した作品の模倣すらまともにできる人が少なくなっているのだという。「そもそも、日本の素晴らしい工芸品のおそるべき完成度は、分業体制と不可分のもの。各職人の専門性を高めることで個々の仕事の質を極度に高める。それを総合することで、おそろしく完成度の高いものを作り出していくんです。これが先人達の知恵」というのが、先日お会いした日本刀研究家の方の意見である。