織田信長がやったこと

 しかし、それをもって「これこそ日本固有の」と言うことはできない。その前の桃山時代は、まったく逆の価値観が支配していた時代なのである。多くの傑出した商人が登場し、歴史の重要な場面で活躍している。商人出身ながら小西行長のように大名になったり、千利休のように大きな影響力を行使する大文化人になってしまった例もある。

 動乱の時代だから、安定した地位や身分は保証されない。その代わりに、出身にかかわらずどのような職業、分野にでも飛び込むことができた。「カネ」についての感覚も江戸時代とはまるで違う。たとえば織田信長は、足利義昭から管領就任の要請を受けた際、それを拒絶し代わりに大津、草津、堺の支配権を要求したとされる。要するに、名誉や権力よりカネを欲したのだ。信長の後継者である豊臣秀吉なども、常に金を傍らに置き、家臣が手柄を立てたと聞くとその場で手ずからその金をすくって与えたりしていたらしい。

 桃山時代は、貿易の時代でもあった。海外からもたらされた多くの産物や知識は国内産業、国内文化に大きな刺激を与えながら結びつき、ほんの短い期間に数え切れないほどの発明品、新文化、今日でも「本邦最高峰」とされる多くの芸術作品を生んだ。もちろん戦争の恩恵もあるのだが、稀にみるイノベーションの時代であったことは事実だと思う。

 どっちの時代がいいなどと言う議論に意味があるとは思えない。まあ、好き好きだし。けれど、「カネに関する価値観」とか「雇用形態」とか「イノベーションの起きやすさ」とか、いくつかの要素は因果関係という太い糸で結ばれた「セット」なのかもということは、この二つの時代が示す性格から何となく感じることができる。

日と米との深い溝

 中村教授が本拠地とするアメリカは、イノベーションとグローバリゼーションの旗手なのだから、桃山時代的である。であるから当然カネは尊くて、「商売=ビジネス」を卑下する風潮は微塵もない、ということか。そんな国の住人からすれば、腹立たしくも日本は「天下泰平志向」の江戸時代にみえるのかもしれない。

 そうであり、それを続けることがみなの総意なのであれば、中村教授が何を言おうと、胸を張ってそうすればよい。けど、でも「やっぱこれじゃあアカン」と思うのなら、ぐるりと身を翻すべきだろう。「終身雇用はやめるけど、定年は存続させてみよう」とか「教育段階ではカネ儲けはタブーだけど、社会人になったらキッチリとカネで評価する」とか、都合のよい「いいとこ取り」のつもりの妙策には、どうにも無理があるような気がしてならない。その無理を強引に押さえつけようとすれば矛盾は肥大化し続け、いつか爆発する。そして結局は、無理を推し進めるものに大きな禍をもたらすのではないか。人員削減のニュースを聞きながら、そんな妄想にふける昨今である。