そのウォークマンですが、世界一周旅行を終えて帰ってくる頃には、商品コンセプトが微妙に変化し、「屋外で周りの騒音に邪魔されずに自分の音楽を楽しめる」装置になっていたのです。微妙な変化と申し上げましたが、ある意味180度正反対のコンセプトの装置です。「周りに迷惑をかけない装置」という動機づけから生まれたはずの装置が、「周りから迷惑をかけられない装置」に成り下がっていたのです。

 この二つのコンセプトの違いによって、装置の構成や仕様的には大きな違いは出ません。とにかくオシャレに売れまくったので結果オーライというようなノリで、この点については取り沙汰されることもなくウォークマンの快進撃は続きます。類似商品が他社から出れば出るほど、さらにオリジナルのブランドは強固になりその名は神格化されていきました。

 私には、この様子と「柔道」が歩んだ道のりがダブって見えるのです。東京五輪で悲願のオリンピック種目採用となり、世界デビューした東洋の神秘的なこの武芸。その後は、関係者が夢見ていた通りに、柔道の輪は世界に普及していくこととなります。「柔らの道」も気付けばいつしか世界のJUDOに立身出世していましたが、そのJUDOとは、私たちがもともとイメージしていた柔道とは似て非なるものでした。グローバルスタンダードの洗礼を受けたJUDOとは、ポイント制になり有効やら効果などという評価・判定側の都合が前面に押し出されたものです。

 「一本で美しく勝たなければ柔道ではない」あるいは、「柔よく剛を制す」「礼に始まり礼に終わる」といった魂の部分は著しく磨滅してしまいました。その代わりに身につけるべきスキルとは、まずは筋力や体力を科学的に強化し、ポイントを上手に稼ぐための傾向と対策を研究し尽くし、さらには審判に効果的に印象付けるアピール手法を身につけるという、魂とは対極にある技能の部分です。「精神修練のための手段」「徳育」であったはずの柔道は、勝つことを目的とした「道着を着た格闘術」「体育」に変身していったのです。

軍事技術の反対側で戦う

 今でもガッツポーズをしただけで勝利判定が取り消しになる剣道や弓道の関係者にとって、柔道のたどった顛末は悲喜こもごもです。世界の人たちに広く知ってもらいたいという気持ちと、決して魂を奪われるようなことはするまいという気持ちの間で揺れ動いているのです。もちろん柔道が広まることによって得たものは計りしれぬ大きいものがあり、私にはそのことの善し悪しについて語るつもりも資格もありません。

 しかし、ウォークマンに関しては語らねばなりません。一見そんな目くじらを立てるような話ではないと思われるかもしれませんが、そもそもの「迷惑をかけない」というコンセプトに、ソニーらしさ、いえ、日本らしい道具観というものの最も大事な魂の部分を感じるのです。なにか人工の道具を新たにこしらえることによって、人と人の関係性を円滑にする方向を目指すのか、それとも逆に人と人の間の関係性を引き裂くようなものを作るのか。この点に関して前者を強く意識するのが日本風であり、そこに対するナチュラルな感度が非常に高かったのが井深さんであり盛田さんであった、というのが私なりのソニー風というものの理解です。