吉田工業(現YKK)は,ご存じの通り世界最大のファスナーメーカーだ。昭和40年(1965年)ごろ,富山県の黒部という地域に優秀な会社があるとして注目を集めていた。このファスナーの部品の加工には,銅の押し出しプレス機が使われていた。それを知った我々は,なんとか同社に宇部興産の機械の売り込みを図りたいと考えた。そこで,早速「御社の工場で稼動する機械を見学させてほしい」と申し込んだ。そして,営業担当の清水和茂君と設計担当の谷口博美君の2人が,何度か吉田工業まで足を運んだのだが,文字通りの門前払いを食らっていた。

 だが,営業の肝とは粘ることだ。一度や二度くらい門前払いされた程度でしょげていては,自分たちの製品なんて永遠に買ってはもらえない。事実,清水君と谷口君の2人の粘りは功を奏した。しばらくして,吉田工業の方から我々に引き合いがあったのだ。「今度,当社はアルミサッシ市場に参入する。よって,良いアルミ押し出しプレス機があれば買いたい」と。

 同社が声を掛けたのは,我々宇部興産と,大阪府にあった日本鉄工所という会社の2社だった。日本鉄工所は日本板硝子の関連会社で,いち早くアルミサッシ用の押し出しプレス機に目を付けて,米レークエリー社との技術提携を試みていた。ところが,結果的にレークエリー社が宇部興産と技術提携したため,独自に機械を開発していた。そして,販売では住友グループの利点を生かし,住友軽金属はもちろん,先発アルミサッシメーカーである不二サッシや日本軽金属に納入実績を持っていた。

 早速,我々が見積もりを提示すると,吉田工業から「日本鉄工所の方が価格が1割安い」との返事が来た。このまま見積もりだけで判断されてしまうと,我々の負けが確定してしまう。私は直ちに清水君と吉田工業に行き,なんとか吉田忠雄社長に掛け合ってみるように頼んだ。すると,清水君の粘りが再び利いたのか,吉田社長は応じてくれた。そして,吉田社長はこう言ったのだ。「我々は将来的にこの事業を拡大させる。そのために,40台のアルミ押し出しプレス機を購入するつもりだ。もしも,宇部興産が日本鉄工所と同じ価格にするというのなら,宇部興産から全部買ってやろう」。

 後に吉田工業の社員などから聞いた話だが,吉田社長は「財閥嫌い」で有名とのこと。それで住友財閥系の企業ではなく,宇部興産を選んでくれたのだと言われた。私にはこれが本当の理由かどうか,吉田社長本人に確認したわけではないから分からない。だが,私はこう思っている。無名の状態から自分の実力だけではい上がってきた吉田社長が,同様に知名度が低かった我々宇部興産の機械部門の「底力」に賭けてくれたのではないか,と。仮に我々に発注する気がないなら,わざわざ事業を拡大する計画や,アルミ押し出しプレス機の購入台数などを清水君の前でつまびらかにしたりしないだろう。吉田社長は我々に「君たちの力を俺に見せてみろ」と言ってくれている気がしてならなかった。

「そんな生意気な話は断れ」

 ところが,「敵は社内にあり」とはよく言ったものだ。この吉田社長の男気を理解せぬ人間が宇部興産の上の方にいた。こともあろうに,宇部興産の幹部は「そんな生意気な話は断ってしまえ」と言い張ったのだ。我々は吉田工業が要求する1割の値引きができず,そのままでは注文を取ることができなかった。確かに,まだあまり世間に知られていなかったころの「吉田のおやじ」の話。当時の宇部興産の幹部からすると「ニッチな小物商品を扱う田舎の中小企業の社長」ぐらいにしか見えなかったのだろう。その後で振り返ってみると,どちらが生意気だったかということになるのだが…。

 しかし,我々のような若い社員の間では,吉田社長に対する評価は宇部興産の幹部とは正反対だった。「自分の腕一本で世界一を実現した男だ。何を成し遂げるか分からない。ここは一つ,吉田社長に賭けてみようではないか」ということで皆が一致した。何しろ,たたき上げで成功した吉田社長は迫力が違う。そして,かつての米国出張以来,私が抱いていた「これからはアルミサッシが伸びる」という直感とも合致していた。こうして,我々は単なる値引きではなく,価格を1割下げるためにものづくりのコストダウンに着手した。

 まず,浅野豊秀君(故人)が中心となり,部品メーカーとの価格交渉に入った。購入品の一覧表を作成し,部品の一つひとつについて,それを納入する部品メーカーに事情を説明した。その上で「受注したら御社に発注するから,今回は値下げに協力してもらえないか」とお願いしたのだ。もちろん,交渉は簡単ではなかった。だが,我々は「客先である吉田工業が相当な実力を備えており,将来も非常に有望であると考えて,今回はなんとしても値引きの要請に応えて受注したい」と部品メーカーに伝えた。これが利いた。たとえ現時点で多少苦しくても,「将来が明るい」と聞けば,相手は一種の「投資」と考えてくれて協力を取り付けやすいからだ。部品メーカーは応じてくれ,我々は目標を達成できた。だが,部品メーカーだけに負担を押し付けたのでなく,その後の取引の拡大によって,部品メーカーにも決して損はさせなかったと自負している。