米レークエリー社との技術提携後,我々は少しずつではあるものの,なんとかダイカストマシンの受注を得ることができた。ところが,押し出しプレス機の方は一向に注文が決まらない。当時,押し出しプレス機と言えば,実績に申し分のない輸入機ばかり。対するこちらは,世間から機械メーカーとして認めてもらっていない宇部興産の機械部門,宇部鉄工所の製品である。営業の清水和茂君,設計の谷口博美君の2人が,押し出しプレス機を設置しそうな企業を足繁く訪問するが,まったく受注に結び付かない。谷口君もたまらず「ほかの仕事をしましょうか」とまで言う始末だ。

 しかし,米国で高層ビルのアルミサッシを見てきた私は「日本でも時期が来れば必ず売れる」と信じていた。次の“メシの種”につながる技術や製品は,ライバルが気づいていないうちに温めておくに越したことはない。彼らには「もうしばらく頑張れ」と言うしかなかった。

 あの日産自動車までが,我々のダイカストマシンを認めてくれたのだ。我々は技術に対する自信を深めていた。だが,名前が知られていないということは,本当に大変なことだ。前回も触れたが,押し出しプレス機の売り込みのために会社を訪れても,まず,宇部興産を知らない。かろうじて宇部興産は知っていても,返ってくる言葉は「ああ,セメントや硫安(硫酸アンモニウム)の会社でしょう?」。その次は判で押したように「え? 機械を造っているのですか?」だ。中にはごく少数だが,機械部門があることを知っている人もいたのだが,炭坑機械の修理部門という認識で「そんなところでプレス機ができるのか?」と明らかに不安そうな表情を見せるのである。

 既に紹介したとおり,宇部興産では船舶用のディーゼルエンジンを造っていた。そこで先方には「そのエンジンを我々が造った工作機械で加工する様子を,ぜひ一度工場まで見に来てください」とお願いし,そうしてようやく技術説明を聞いてもらえるという状況だった。実は,宇部興産は船舶用ディーゼルエンジンを長年造っていたのだが,赤字続きだった。しかし,名もなき機械部門にとっては,相手に話を聞いたもらうための“宣伝材料”として大きく貢献したというわけだ。実際,我々はこのお陰でプレス機の商売を広げることができたのだと思っている。事業は利益を出すために行うものだが,何が奏功するか分からない。

 こうして仕事を始めて3年目,待望の押し出しプレス機の1号機を三菱金属(現三菱マテリアル)から受注した。そして,製作を完了して納入し,無事に運転を開始したのが昭和39年(1964年)春のことだ。宇部興産の押し出しプレス機の歴史の始まりであった。

 当時,三菱金属の稲井好広社長はその時の清水君の働きに感心し,社内報に「MR.S」という匿名の営業マンとしてその働きぶりについて書いてくれた。その後も非常に親切にしていただいた。それからしばらくたって,我々は日商(後の日商岩井,現双日)名古屋の世話で,本多金属工業から1250tの単動式アルミ押し出しプレス機を受注し,製作を行った。