昭和30年代(1955~1964年),日本の鉄鋼メーカーは成長期にあり,ロールや製品を研削するグラインダに使う砥石の需要が急速に伸びていた。日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)は美しい皿やティーカップなどの陶器で一般に知られるが,砥石の分野でもトップメーカーであり,我々宇部興産の機械部門にも砥石プレス機の発注が相次いだ。その中の一つに3300tのプレス機があった。これは一体フレームのユニークな形状のプレス機で,米レークエリー社が設計した特徴のある機械だった。

 これに続いて,1500tの砥石プレス機を納入した時のことである。工場試運転の時は順調だった砥石プレス機が,現場据え付けを行ったところ,全然動かない。この現場据え付けには谷口博美君の部下で,設計を担当した若い藤井節夫君が行ったのだが,どうにもうまくいかない。

 日本陶器は藤井君の上司で設計責任者だった「谷口君を派遣しろ」と言ってきたが,私は応じずに藤井君に任せた。その代わり,油圧回路のここを調べろ,電気回路のあそこは大丈夫かなどと,私は藤井君に電話でいろいろとアドバイスするのだが,問題点は見つからない。藤井君も毎晩,旅館で懸命に考え続け,ある時,ひらめいた個所があった。それは,メインラムのグランドパッキングだった。翌日,これを緩めたところ,砥石プレス機は順調に動き始めたのである。

 その結果,藤井君は客先の信用を確保することができたし,なにより,彼自身の自信にもつながった。自分で製品を設計し,発生したトラブルを自ら解決して客先できちんと動かしたのだ。技術者にとって,これほど素晴らしい経験はない。私は藤井君に早く一人前になってもらうために,谷口君を派遣せずに最後まで自分で解決させたのである。

 正直に言うと,台所事情もあった。数少ない若いメンバーでスタートした我々のグループは,人手が足りない。「一人ひとりが自信を持ち,客先から信用を得る」ことこそが財産で,そうしなければ多くの仕事をこなすことができない。

 その後,日本陶器の仕事は責任者の谷口君が行かなくても,藤井君が受注活動から稼動までをこなせるようになった。もちろん,日本陶器からの信頼を得てのことだ。

日産自動車からの受注の裏に

 ある日,営業の清水和茂君が日産自動車の情報を仕入れてきた。「日産自動車が商社を介し,米KUX社の1200tのダイカストマシンの輸入を計画している」──というものだ。当時は,ダイカストマシンを内製する自動車メーカーはほとんどなく,そのため,ダイカストマシンを知る技術者も少なかった。我々の営業担当者は,必死になって自動車メーカーの購買担当者にダイカストマシンの売り込みを行ったのだが,いかんせん,技術説明をうまくできる人間がいなかった。

 既に述べた通り,古河鋳造(現フルチュウ)や菱備製作所(現リョービ)のような経験のあるダイカストメーカーでは,機械メーカーとして東芝機械1社だけに頼るのはリスクがあるということで,「ダイカストマシンメーカーをもう1社育ててやろう」という考えを持っていた。そこで,実績が乏しかった宇部興産の機械を買ってくれたのだが,さすがに自動車メーカーはそうはいかない。

 しかし,だからといって輸入ばかりされたのでは,こちらの商売が成り立たない。この状況を打破したのが,清水君の働きだ。ダイカストマシン1号機を買ってくれた古河鋳造に頼み込み,我々の代わりに技術説明をし,技術指導までしてもらうことを承諾してもらったのだ。その分,我々は古河鋳造に対し,きめの細かいアフターサービスを提供することを約束した。ありがたいことに,古河鋳造は我々を助けてくれた。非常にありがたく,かつ,ラッキーな話だ。ひょっとすると,古河鋳造には,宇部興産が自動車メーカーと取引することで,厳しい要求を突き付けられることになる。それによって鍛えられ,我々が古河鋳造向けに開発するダイカストマシンの性能や品質が高まることを期待したのかもしれない。いずれにせよ,こうして我々は,日産自動車の吉原工場からダイカストマシンを受注した。これが宇部興産の自動車向けダイカストマシンの1号機である。

「若気の至り」で世界最大級に挑戦