団塊の世代が大量にリタイアしつつある昨今、デジタルアーカイブということで技量やノウハウなどをとにかく丸のまま保存しようとする動きがあります。場の空気を含めて「全部録る」という目標自体がナンセンスと思われる方がいるかもしれません。しかし、「まず全部」という考え方は、下手に解釈を入れようとするより良いことなのかもとも思います。アナログな技のようなものには、当人でさえ因果関係を理解していないものさえ少なくないからです。先ほどの「レース直前歯磨き」の理由についても大橋先輩ご本人の解説によれば、「スースーして酸素がいっぱい取り入れられるのじゃ」みたいな科学的(?)な説明をされていたくらいです。いや真の理由は本当にそれかもしれませんね。茶化すつもりは毛頭ありません。

 軽率に「守・破・離」などと深い言葉を使うと、どこかの怪しげなマネージメント研修講座を思い浮かべそうなお話ですが、半導体の最前線でも似たようなことが起きています。インテル社のコピーエグザクトリという合言葉をご存知でしょうか。45ナノから32ナノへと移行しつつある新プロセスですが、世代が進むごとにQCマージンは減り、品質管理は困難を極めています。

 オレゴン州にあるD1Dと呼ばれる開発工場で新しいプロセスを試行錯誤して立ち上げると、本格量産を行うアリゾナ工場やイスラエルの工場などに移管していくのですが、とにかく歩留まり確保が心配です。ですから移管に際しては、馬鹿になって何から何まで全く同じ環境を再現することを原則としています。装置関連の仕様や設定条件などはもちろんのことですが、悔いのないように廊下のレイアウトからトイレの配置に至るまで例外なく全てコピペするのです。なにしろ、どの事象が「風が吹けば桶屋が儲かる」式の複雑系の因果で歩留まり向上に役立っているのかわからないわけですから、とにかく徹底的にまずは真似る「守」の精神なわけです。デジタルの世界も1億トランジスタというような大規模複雑系になると一周まわって職人道のローテクなアナログの発想に似てくるというのは面白い現象です。破を目指さぬ守は単なる頑迷に陥りますが、守の卒業とは己の器の大きさを問われるようです。

 インテルのオレゴン開発工場のトイレの配置と、大橋先輩の「100メートルあたりでベローっと舌を出すのじゃ」。どちらもまずは真似してみることに意味がありそうです。25年も経ってしまいましたが、その節は若気の至りで大変失礼いたしました、本当にありがとうございました、大橋先輩。

著者紹介

川口盛之助(かわぐち・もりのすけ)


慶応義塾大学工学部卒、米イリノイ大学理学部修士課程修了。日立製作所で材料や部品、生産技術などの開発に携わった後、KRIを経て、アーサー・D・リトル(ADL Japan)に参画。現在は、同社プリンシパル。世界の製造業の研究開発戦略、商品開発戦略、研究組織風土改革などを手がける。著書に『オタクで女の子な国のモノづくり』(講談社,2008年(第8回)日経BP・BizTech図書賞受賞)がある。

本稿は、技術経営メールにも掲載しています。技術経営メールは、イノベーションのための技術経営戦略誌『日経ビズテック』プロジェクトの一環で配信されています。