私が大学生時代のことですから、かれこれ25年くらい前の話になります。「工学部応用化学科」というよりは「体育会競走部」所属と言った方がよいほど、もっぱらはべっていて、100メートル走の練習に明け暮れたアスリートな4年間でした。

 陸上部のことを競走部なんて呼ぶくらいですから、歴史が古く、行儀作法や儀礼にとてもうるさい組織でした。練習場に先輩方が顔を出されて、差し入れやらアドバイスなどを頂くこともしばしば。なかでも、特に熱心においでになる大先輩がいらっしゃいました。仮にこの方を「大橋さん」としましょう。この方は、戦前には日本代表に選ばれたくらいの元有名選手で、OB会でも大きな存在感を持っておられた大先輩でした。たまにトラックにお見えになると、現役選手たちは練習を中断して大橋さんのところに集合し、ありがたいお話を拝聴することになります。

 ご高齢なこともあって、毎回似たようなお話の繰り返しが多く、その内容も半分くらいは校長先生の人生訓みたいなものです。走りに関する技術論やトレーニング方法などについても語られるのですが、古色蒼然たるお話ばかりで、正直あまり参考になりそうなネタに乏しい感じです。一兵卒のように直立不動の姿勢でうなずきながら話を聞いてはいるものの、本音は「早いこと終わんねぇかなぁ」といったところ。ひたすら時間が過ぎるのを待っていたことを思い出します。

 そんな有難迷惑な大橋先輩のアドバイスの一つにこんなものがありました。200メートル走で好成績を上げる極意についてです。200メートル走は前半の100メートルがカーブで、半分を超えたあたりから第四コーナーを抜けて直線走に切り替わるのですが、曰く、「コーナーを抜けるあたりで舌をベローっと出すんだよ」というのです。上述のようにいやいや聞いているわけですから、この話についても「ああーまた変なこと言い始めたよー、勘弁してくれよー」な感じで顔を見合わせたりしておりました。ペコちゃんみたいに舌をペロッと出す感じではなくて、山門の仁王様のようにグワーッと大きく口を開いて思いっきりベローッと出せとのことですが、そう言われても、意味不明ですよね。速く走るメカニズムとの因果関係が、さっぱり分かりません。大橋先輩曰く「酸素がいっぱい肺に入るのじゃ」みたいなことをおっしゃるのですが、その説明も飛びつくにはいまいちパンチ力不足です。

何とカール・ルイスか・・・

 そのころ世界の短距離界では、カール・ルイスという超新星が出現し、陸上界の話題を独り占めしていました。ずば抜けて速いだけでなく、なにしろフォームが美しい。さらには、短距離だけでなく幅跳びでも金メダルを取るなど、とにかく神は不公平と皆が嫉妬するほどに、どこを取ってもマルチタレントな天才アスリートでした。当然私ども場末の選手たちもこの憧れの天才の走りのイメージを何とか脳に焼き付けようと何度も映像を見たものです。