この、正義や信念というものをどうとらえるかということは、ジャーナリズムというものを考える上でとても重い課題だと思う。「ジャーナリストは観察者であるべきか、行為者であるべきか」という、根源的な問題に直結するからだ。

正反対の薫陶

 先に紹介した特集記事がいい例である。この記事は取材先から猛反発を浴びたが、実は社内のある大先輩からもこの記事のおかげでこっぴどく怒られたのである。業界の成長に水を差すというのが、その理由だった。「私たちには産業を育成する責務がある。このようなネガティブな記事はせっかく加熱してきた投資意欲を削ぐものだ」と。

 その大先輩は、マスコミは行為者であるべきで、観察者ではダメなのだという。「目の前に弱ったネコがいるとするだろ。見ると、どうもエサを食べたがっていない。それを見て『どうも食べていないようですねぇ』なんて書いてどんな意味があるんだ。何とかエサを食べさせようとするのがオレたちの仕事じゃないか」と説教されたものである。

 それは一つのあり方だと思うが、私がこの会社に転職してきて、当時の編集長である西村氏から薫陶を受けたジャーナリストのあるべき姿とは正反対のものだった。西村氏は「ジャーナリストはよき観察者であるべし」という。簡単に言えば、見えにくい「本当のこと」を書きなさいということだと思う。そうであれば、その反語としての「行為者」とは、「本当のこと」を自身の責務や信念、自身が奉じる正義と照らし合わせて解釈、あるいは演出する者、ということになるだろう。

 西村氏の「観察者たれ」との教えに従えば、「このペースで投資を続ければ供給過剰に陥る」ということが「本当のこと」だと確信できれば、説得できる材料を用意してそれを訴えるべきである。その結果は、「正義に照らし合わせて論調を決める」という行為者からすれば「まったくなってない」ものかもしれない。けれど、「だからダメなんだ」と言われても、まっさらのときから教え込まれてきたものは、そう簡単に変えられるものではない。

 もっとも「そう教えられたんだから」というのは都合のよい言い訳かもしれない。実は、変えなくてもいいと思ったのである。「行為者か観察者か」という問題に関しては、あまりに二人の先輩の意見が違うので、機会あるごとに社内外の先輩ジャーナリストの方にこの話題を吹っかけてみた。けれど、どちらかが圧倒的多数ということでもなく、「そんなこと考えてみたこともない」という方も少なからずおられ、結局は自分で決めるしかないことなのかと考えるに至った。