「樹脂部品発注方針(社外秘)」

 明日の夜,鈴木は恋人と久しぶりにデートをする約束をしていた。この人は人の予定も聞かずに勝手に計画を決めている。それよりも,この先どうすればよいのだろう。

 「帰れって…田中さん,この先どうすればいいのですか? 出図期限は迫っているし,サプライヤーさんにいろいろ聞きたいこともありますし。この先どこのサプライヤーさんと話を進めればよいのでしょうか」?

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 田中が鈴木の顔を見た。日に焼けた顔にギョロっとした目が光る。

「この部品の発注先は在家工業だ。在家工業社は小さい企業だが,技術力は確かだ。ちょうど600トン級の射出成型機をこの夏に設備増強する。在家工業は今まではうちの仕事が中心だったけど,総合電機メーカー恵比寿電機のテレビ事業部の新規商談が決まった。実は俺が紹介したんだけどな。この新設備の稼働率が上がれば,他社よりもコスト競争力が出てくる。 今日この後に鈴木君のところに在家工業の営業から連絡をさせる。明日の夜,21時にこっちに来てもらう。21時だったら鈴木さんも薬師から帰って来られるだろ」?

 この人は何で私の私生活をことごとく邪魔するのだろう。鈴木は心の中で思った。

「俺も若いころはお前のところの部長にこき使われてな,いつもデートはキャンセル。そのうちデートする相手すらいなくなった」。
「なんで分かるんですか」?
「顔に書いてある」。田中はぶすっと言う。「それから,これも読んでおけ。お前のところの部長には前に渡してある」。

 田中は束になった紙の資料をドサッと鈴木の前に置いた。その資料の表紙には「樹脂部品発注方針(社外秘)-設計説明用-」と書いてあった。

 鈴木は資料を抱えて設計棟に戻り,ひじでドアを開けた。さっきまでいた購買部のフロアと違い,静かだ。そうだ,まずは先輩に報告しておかないと。

「先輩,田中さんのところに行ってきました」。
「で,どうだった?絞られただろ」?
「そうでもなかったですよ。この資料を読んでおけって。あ,あと,技術検討は在家工業社と進めてくれということです。それから,あの人は設計出身なんですか? 図面見せろって言われて見せたら,これじゃあ造れないって」。
「そうか,よかったな,大事にならなくて。俺も詳しくは知らないが,彼は設計出身でないことは確かだよ。いつ聞いたんだったか,哲学科出身とか言っていたかな」。

 先輩との話が終わり,鈴木は田中から渡された資料の斜め読みを始めた。びっくりした。理論的かつ体系的に何をどういう割合でどこのサプライヤーに発注するか,その結果どういうサプライヤーとの関係を作っていくのかが理路整然とまとまっている。サプライヤー評価,コスト比較,サプライヤーの経営状況,人物情報,各社の技術トレンド,設備投資計画,発注計画,ターゲットコスト,目標設定と達成状況,競合他社の開発計画を基にした設備稼働計画や工場別の損益計画など,本来なら得られるはずのない情報も網羅されている。

 これほど分かりやすく,かつ説得力のある資料を見るのは入社して以来初めてだった。鈴木は心の中でつぶやいた。

「購買っていうのは声が大きく交渉上手な人がコスト削減をしているだけかと思ったけど,ちょっと印象が変わったな。こんな資料があるんだったら早く見せてくれればよかったのに。

 でも変だな。今までも勝手にこっちでサプライヤーに声かけて技術打ち合わせをやってきたけど,購買部の誰も何も言ってこなかったし,どこのサプライヤーに声をかけるかで『発注方針』を参考にしたこともない」。

 田中との出会いは,鈴木がエンジニアとバイヤーの境界を歩きだした第一歩だった。