「何やってるんだ!」

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 鈴木孝は総合電気メーカー「霜月電機」の入社3年目のエンジニアである。入社1年目は研修や半年間の工場・販売実習を経て,現在の映像機器事業部の開発部門へ配属され,先輩社員について回路設計を手伝っていた。その後1年近く回路設計,実装設計に携わり,現在はある新製品の開発に関わっている。

 今回の新製品は小型・軽量化されたデジタルビデオカメラ。鈴木の事業部での主力商品でもある。鈴木は大学では電気工学を専攻していたものの,新製品開発の一連のプロセスを経験するのは初めてだ。商品企画~意匠~構想設計~詳細設計~試作~量産設計~量産~販売という流れは研修で教わったものの,自らそのプロセスの中に入り込むのは研修とはわけが違う。

 鈴木は躯体設計のサポートをしていた。躯体はアクリル樹脂の射出成形品であり,自社では生産設備を持っていない。そもそも射出成形とはどういう工法であるか,鈴木は見たこともない。デザイン部門から出図された意匠に基づき,入社8年目の先輩エンジニアである佐藤から指示を受けた通りにCADで作図を進めている。

 当然のことながら時間的な余裕はない。彼は成形上の制約条件を調べるために,サプライヤー黒須化成工業の技術者と連絡を取った。ゲストエンジニアとして鈴木のオフィスに長い期間駐在したことがあった安部氏である。安部氏は30歳代後半のベテランエンジニアであり,鈴木も以前はタバコ部屋で何度か話をしたことがある。

 鈴木は研修時代の実装設計でも電子部品サプライヤーの営業や技術部門とは何度もコンタクトしていた。やはり「餅屋は餅屋」であり,先輩に聞くよりも多くの情報が取れる。だいたい,先輩エンジニアである佐藤は短時間のアドバイスを仰ぐのも気の毒なくらい,一次プロト(試作)に向けて連日徹夜が続いている。

 約束の時間の5分前,安部氏が来社した,と受付から鈴木のPHSに連絡が入った。鈴木は,たまたま隣の席に座っていた佐藤に話しかけた。

「躯体の設計打ち合わせで黒須化成の安部さんが来られてるんで,ちょっと行ってきます」。
「それはいいけれど,購買は同席しないの」?
「いや,設計仕様の打ち合わせなので購買は必要ないかと思いまして」。
「購買には黒須化成へ発注前提で了解は取れているの」?
「いや特に連絡していませんけど,何か」?
「何やってるんだ!躯体の購買担当は田中さんだぞ。すぐクレームが入るぞ!」

 鈴木は佐藤の強い口調に圧倒され,頭が真っ白になってしまった。その時自分のPHSが鳴った。内線だが見慣れない番号が表示されている。

「はい,鈴木です」。
「購買の田中だが,今度の新商品の躯体設計を担当しているのは鈴木さんか」?
「はいそうですが」。
「お前,何の権限があって,黒須化成に決めたんだ」?
「…」

 田中はすごい剣幕で怒っている。その後も田中の言葉は続いたが,鈴木は何も答えられない。田中は反応がない相手に言ってもしょうがないと思ったのか,やや落ち着いた声で鈴木に聞いた。

「鈴木さんは何年入社だ」?
「2004年ですけど」。

 しばらくの無言の後,田中がこう続ける。

「ちょっと,今すぐこっちへ来い。ただし誰も連れてくるなよ」。
「すみません。今黒須化成の設計の安部さんが来ているのですけど」。
「そんなのはいい。俺が話をつけておく」。ガシャ。…………